またまた言密教の威力が炸裂か

いやぁ恐るべし真言密教。修法すれば明らかな感応がある!今日は久しぶりに宮殿聖門の鍵が見つからずに往生こいた。宮殿じゅうを探しに探して本の隙間まで調べたが見つからない。少し自棄っ八な気分になってダメ元の胎蔵界大日如来真言を唱えたいだけ唱えてみた。んで読書スペースに移動し思いつきで椅子の下に手をやると不思議や不思議!床に広げた布のシワの間に隠れていた鍵に指先が当たった。ここまで劇的で再現性もある現象を改めて目の当たりにするとなれば半信半疑な態度を保とうとしても無理だ。とはいえ劇的な経験が何度もありました。だから真実ですなどと素直なリアクションなどしたらバカに見られるから少しでも利口そうに見えるよな本当らしい言い訳を無理にでも捏造しておきたくなる。おそらく現象の背景には潜在記憶とかデフォルトモードとか何とか人間の無意識領域の何らかの機能が動いていたんぢゃないか。そうでも言って置かないと本物のバカかビョーキにされてしまいそうだ。それがダメなら保身のために今回の体験は無かったことにしてしまおう。それでも当方は仏教徒。やはり仏様のチカラだと感謝したい。
洋の東西を問わず昔の神秘主義者は近代の足音を聞きながら自分たちが守ってきた伝統の近代化を真剣に試みていた。その営みは新しい時代に向かう魔術家たちが新しい自己イメージを模索する試みであり後世の人々の魔術に対する無責任で侮蔑的な評論のように保身のための強引な正当化の類いではなかったようだ。20世紀前半には早くもダイアン・フォーチュンらがフロイト精神分析理論を手がかりに人間の無意識の働きによる魔術の説明に挑んでいた。後に宮城音弥博士は無意識の働きの中の識域外(識閾下)知覚が特に魔術的な体験を合理的に理解するのに役立つ因子だと見て研究していた。日常生活の中で人間は意識にとって無意味な知覚や記憶などの情報を捨てながら活動している。それは自動的な情報処理になるが捨てられたり置いてきぼりにされた情報が無意識領域で保存されていたとすれば祈りや儀式という特殊な刺激を契機に普段は廃棄されたりマスキングされている情報なんかが表面にポップアップしてくるというのは想定可能な感じだ。もう説明とか正当化とかは後回しで読書によって体験的に未知の世界を垣間見るように魔術的な世界を実験的に覗
きに行くのは悪くないんぢゃないか。