儒学vsギャンブルで癒しの対決!

名曲というより怪曲というべき「夜へ急ぐ人」という歌がある。♪私の心の深い闇の中からオイデオイデする人アンタ誰ぇ?聴き終わった瞬間に思わず気持ち悪いですねぇという一声も出そうな一曲。人は時に何か得体の知れない魔力に促されるように破滅に向かうしかない道に自ら走ってしまう。純烈の友井雄亮メンバーのDVに浮気に使い込みも単純に友井氏の極悪な本性を読み取って終わりになら話は簡単だ。通に生きてる人間が危険な領域に足を踏み入れずに済んでいるのは弱必ずしも善良気な心のせいぢゃない。むしろ心の弱さ人々に幸いしてるだけかも知れない、人間の恐怖心や警戒心や猜疑心などのような陰険な部分だって身を守る手段としては見事に役に立っている。儒学では格物致知といって可能な限り自然界や人間心理の動きを事実の観察から把握しようとしてきた。そうゆうスタンスがあるから悪や過ちも取り敢えず正常な人間心理の惜しい感じの現れだと捉えようと試みる。そして 悪は封殺するのではなく悪の仕組みを知った上で防ぐものと考える。もし全ての悪を安易に異常領域に押しやって満足しちゃうなら悪は永遠に善に立ち返るチャンスを失うだろ
う。
友井メンバーは釈明・謝罪会見でギャンブルは借りたカネを早く返したいためだったと語っていた。それを人は単なる保身のための弁解だったと感じるかも知れないが少しの真実も反映してないとは言い切れない。もしかしてギャンブルに耽溺しているときの心理としてはギャンブルで損失が挽回できると感じてしまうのは正常な反応とまでは言えないが必然的反応とは言えるかもしれない気がする。極悪な振舞いは極悪な本性の持ち主の所業というより許容範囲を超えた焦りや不安や疑いに支配されたら誰でも極悪に走る危険性を抱いていると考えた方が妥当か。確かに当方の周りでもギャンブルやる人は必ずしも下品で無作法で投げ槍なキャラの人間ばかりぢゃない。かつて厄介になっていた大学の事務にもギャンブルのために公金を横領した人物がいたが印象から言えば際立ってフランクで親切で仕事も誰より丁寧 だった。それを人はカムフラージュだというだろうが本当か。少なくとも事務のオッサンは自分の極悪を隠すために善良な振りをしていたというより誠実な仕事を遂行する重圧に耐えるために悪に癒しを求めていたんぢゃないかと感じた。
友井メンバーの極悪行為の本質も明るく楽しい人格を保とうとするほど巨大化してくる宿命的な闇だったのかも知れない。もちろん悪を行う人に自己正当化の根拠なんて与える必要はないし被害者にしてみたら全ての弁解は身勝手な事情でしかない。やはり悪は悪であり過ちは過ちだ。問題なのは善の仮面ために悪に癒されようとする試み。でも悪かは人を癒してくれない。そして世の中には悪ぢゃなくても善良な人間を癒せるものは山の ように用意されている。そうゆう癒しの勉強をするのも儒学だと思うのだ。儒学は古くから音楽やアートの癒し効果に注目していた。もしやの話だが怖そうな感じのロック・ミュージシャンの中に性格が良い人々が意外に多いのも打撃的音楽そのものの癒しのパワーの証しか。