開運できるまでの歩み

暮れも押しつまった頃に読んだ渡邊愛子氏の瞑想本は瞑想する人が段階的に体験する日常生活の変化を具体的に示しているとこが画期的だった。こうゆう本は意外に少ないのだ。しかも本書の内容が当方の経験と見事に合致しているぢゃん。特に瞑想しているだけで自然に開運できるというとこ。んで話を開運に絞って当方の修行の歩みを振り返ってみた。密教に初めて手を出したのは20代のころだったが仏様の威力をホントに意識するのは顕教の観の修行を始めた一昨年のことだ。それから半年後には略式ながら密教の修法を加える。そして開運を実感したのは昨年も秋に入った頃。誰か特定の人に片寄って動くことなく場や領域全体に等しく作用する怪異のチカラや仕組みに接触して以降のことだ。まず観の修行では単純に仏教の理論に基づいて自分の心の構造と動きの観察を繰り返したが効果は満点で修行を始めるや以前のように意地悪な心や作為的な心が勝手に動き出さなくなってくれた。また瞬間ゝゝに分かれ道の前に立つ自分の心を観察するだけで次々に変化する状況に対しても常に前向きに対応しようという傾向が強まった。
片や密教は確かに不可思議な世界で修行が進むと実際に色んな怪異が起こり修行によって隠れた怨念が片付くと怪異も消えたりした。意外だったのは修行の効果が修行中の意識状態の変化よりも普段の活動の中の体験に現れるとこで例えば面倒が起こったときは仏様に自然に祈りたくなり祈れば事態が解決の方向に向かうことが多くなった。こうなると厄介事やトラブルも仏様の見守りを確認するチャンスみたいに感じてくる。
だから順風のときばかりでなく逆風のときには逆風なりに働いている仏様のチカラが解るようになり最後にゃ平穏無事なときにこそ仏様の絶大な威力を実感するに至った。修行中にドライブ感を感じだした頃からか急に好都合と不都合が別々に集中して起きだし次第に祈りの手応えの違いと出来事のタイプとがリアルにリンクし始めた。んなこんなで普段でも観に入ると歩けば信号は青続きだわ出掛けりゃ得な買い物が出来るわ用がある相手にゃ都合よく出くわすわギリギリで危険を回避できるわと祈れば状況が絶妙なタイミングで動くという変な体験の数々が。それが昨年の12月。これは孔雀明王真言を唱え出した時期に一致している。それにしても密教と出会ったのが20代。ただ観を知らなかったばっかりに長い回り道をしていたようだ。しかし今が最良のときだからこそ今になって初めて仏縁を頂けたんだろう。今さらながら目の当たりにできた密教の絶対平等な働きと変幻自在な仏の世界観。この幸福を今は全身で受け止めている。