儒学の命はリアルな手本

儒教の基本文献に春秋があり礼記があり書経があるというの。これらが過去のエピソード集だというとこに重要な意味が隠されているかも。残りの詩経易経はエピソード集とは言いにくそうだがシチュエーションの集まりだとするとシンボル化あるいは抽象化されたエピソードの集積と見ることもできる。このごろ読むのが江戸時代の本ばかりで感覚が少し変になっている自覚はあるが江戸時代と現代の知性の間に巨大断層みたいな裂け目が走っているのを実感するよになっている。そして昔の本を透かしてみたら特に現代の言論に感じていた疑わしさや気持ち悪さや危うさの正体が判ってきた。江戸時代の経済学書や記述書だけでなく文学賞の冒頭は大抵が儒教的な世界観をベースにした道徳基準だ。しかも書かれているのは朱子学風の抽象概念のオンパレードになっている。これを表面的に見たら儒教が抽象的な道徳項目で人間を支配する思想だったようなイメージの証拠になってしまう。でも朱子学そのものの土台の中心になっている性善説格物致知の価値観も主に孟子というエピソードの書から出発していることは見落とせないか。
確かに儒教で特別な重みを持つ論語のエピソード性は他の基本文献より薄い。これは道教での老子道教経と似た感じだが論語が四書を必要としたように老子荘子を不可欠な相方にしている。エピソードによる記述には抽象的な価値観や道徳観を端的かつ具体的に表現するという機能があることは簡単に解るが他にも無視されがちだが深い深い役割がある気がする。それは除去からの全ての提案が触れ込み上は事実に基づくアイデアであり実現可能なケースだということ。この実現可能性こそが儒教の保守性の理由に違いないし保守的ぢゃなきゃ儒教のリアリティーが失われることにもなると言える。もし儒教が無責任に想像上の理想を提示し人間を架空の基準に服従させようとする思想だったら儒教は元からエピソードから自由でいられただろう。残念なのは当初の朱子学が実践的すぎたために具体的行動基準の教材をエピソードではなく各個人の経験に求め切ったために皮肉にも基本原則となる簡潔な概念だけが後世の教材として残されたことだったか。ただし江戸時代の実学の世界だけには儒教のエピソード指向は健全に残されていたようで多くの政策や技法に関する提言は頭から出て
きた抽象的理想ではなく観察から解明された因
果関係を基準にしている。そのため江戸の実学は対象に所期の状態を操作的に無理強いするよりも内在的な志向性を刺激する手法が主流になっているよに見える。このエピソードもしくは体験の集積が儒教の無敵のプライドだ。