分眠の幸福と不眠の不幸

昔のカトリックの修道士は一日24時間を均等に8つに区切って節目ごとに長い祈りを捧げていたそうな。夜中の祈りだけでも3回あるんだから睡眠負債で相当キツかろうと思っていた。そこで神父様に訊いてみたら昔の修道士の生活リズムは今と違っていて一日の睡眠時間を何度かに分けて生活していたとのことだった。現代の8時間を睡眠に集中させる生活パターンは実は近代社会が工業化したのちに広く定着したものらしい。んなら8時間睡眠もミッシェル・フーコーが言う近代が作った常識の一つと言えるか。当方も夜中に作業する必要があった時期に神父様の話を真に受けて分眠を試してみた。どうせ熟眠できなくて睡眠不足に陥るが関の山だと後ろ向きの予測をしていたが実際に試してみたら寝覚めが物凄くラクになった。あのダルくて起きられない当たり前の朝の感覚とは一発でオサラバできた。ついでに8時間睡眠よりも疲れが蓄積されなくなった。こりゃ大助かりだ。それから生活パターンが元の昼型に戻ったので睡眠も再び8時間集中モードに戻していった。とこれが最近になって座禅が日課になってからは自然に分眠モードが動きだした。昼下がりと夕方が眠いの眠い
の。しかし8時間モードでも午後は眠かったんだから総体的には分眠モードの方が楽チンということになるか。こうなると何やら心は仏教で体はカトリックみたいな変な感じになるが快調である。世間には不眠症で苦しむ人々がいる。その訴えを聞くと表面的には不眠症の睡眠パターンは分眠の場合に限りなく近く見える。医師の圏外によると不眠症の苦痛は眠ろうとするほど増大するのだとか。いわゆる努力逆転の法則によって眠ろうとする努力と眠れないという現実との矛盾か焦りを生み苦痛を幅させるのだろう。そこで医師は眠ろうという努力を捨てるようアドバイス するそうな。眠れないなら眠らないという話か。そう言われても長い夜の孤独と退屈も新たな悩みになりそうだ。普通の人は修道生活なんかしてないんだから!さて外形的には分眠と同じ不眠症も分眠の方にシフトできるんだろうか。当方なら修道士と同じく瞑想を生活に取り入れているからシフトもラクなのかも知れない。もし瞑想に代わる何かがあればコペルニクス的展開みたいに眠れない状態が眠らない態度に変わり不眠症の苦痛が分眠の快楽になったりするのだろうか。だいたい集中睡眠と分眠には優
劣があるのだろうか…。