脳は気持ち悪い

しばらく脳による悪さは封殺されていたようだが昨日は久しぶりに脳の暴走が始まり酷いことになった。脳の手口は常に同じで感覚の精度を勝手に調整して注意が手薄な領域を作り無自覚な行動を誘発させ不覚にも物に取り返しの効かない損害を与えるという形だ。脳の暴走は単なる不注意とは違う。特定のパターンがあるばかりか偶然の事故や機器の異常動作など付随的な兆候がある。こんなんは魔術とかギャンブルやってる人か神経症の人間にしか共有されないアホくさい体験だ。これが3年前までは数日に一度しか起きなかったが修行してからは急激に減り数ヶ月に一度くらいに収まっている。しかも基本的に損害は未然に防げている。今回は違った。脳は飯粒が着いたままの手の甲の皮膚感覚を鈍麻確させ本を読むように仕向ける。結果は想像どおり悲惨なものだった。強烈な眠気が去って本を開くとページの隅に絶妙な粘度に版画脇した飯粒が対処不能な状態に。以前も同じ手口で何冊も本を棄損させられたが最近は手の違和感があるから決して脳の誘導には乗らなかったが昨日はホントに油断していた。
これだけなら単純な不注意の結果と解釈できるが今回も翌日の今日になって便所の水が勝手に流れるという絵に描いたよな怪異。これが起こらなけりゃ今度の出来事も努力して忘れるが無理というもんだ。今までの観の修行の効果は驚異的だったとはいえ怪異が絶えないのは心の中に今なお未処理の怨念や焦りが心の中に潜伏している証拠だ。おそらく諸行無常の世界と知りながら損失を引き金に動き出す未来への暗い展望。そして世界そのものへの嫌悪感あたりが脳を刺激するか。

芥川賞の巧妙な仕掛け

パリにあったバンキシィの作品?が盗難にあったとか。惨劇が起きた場所にあった記念碑的な作品だっただけに犯行の裏に何か犯人側のメッセージ性まで予感される。またバンクシィが元々画家なのか扇情的活動家なのかもハナハダ疑わしく極端な話として盗難そのものが作品?の一部だとさえ深読みしたくなる。元々ゲージツ作品の価値や権威なんてのは怪しいものなんだ。菊地寛が自ら明言したように芥川賞の目的は自分が主宰する雑誌の宣伝のためだったらしい。実際に受賞した歴代の作品の多くは人民大衆から遠く遊離したマニアックすぎる内容のもので広範な読者を得たものは少ない。そのためか直木賞作家に比べると食えている作家は極度に少ないらしい。つまり芥川賞は放っといたら世間には見向きもされない悲しい文学賞だと言わざるを得ない。そこで当方の邪推が動き出す!芥川賞に大衆の関心を集めるには何をしようか。やはり有名人の人気を利用するのが最大の近道か。又吉氏の作品の場合は実際の売上にも繋がったが受賞者が有名人ばかりだと権威も保てないし魂胆もバレちゃう。
んなら有名人をノミネートしといて最後の土壇場で落とせば宣伝効果も抜群だ。これぢゃ有名人を選挙に出して勢力拡大を狙う巨大政党と同じ魂胆なんぢゃん。

水虫で読む煽り運転の心理

またも煽り運転で死者が。報道に従えば煽り運転は何かの挑発行為への報復として行ったと弁解しているようだが悪質な加害者ほど自ら相手を意識的に挑発したりしてトラブルの動機を作りたがるようだ。もし煽り運転が他人の悪意への報復行為なら無理矢理に不愉快なトラブルを起こす必要もなさそな話だ。しかし面々が不条理な振舞いを見せるのは異常心理の現れではなく抑えを失った欲求心理の必然の動きだ。たとえば普通の人なら水虫を掻くのが気持ちいいと聞いても水虫になろうとは願わないが一度でも水虫を掻く快楽に魅せられてしまうと自らの足に水虫を作り出したくなるかも。現実には報復は単に不快とたかるシスのギャップだから不快感なしに得られない歪んだ快楽だ。一般にカタルシスでしか快楽を得られない人物は不快感だらけの日常を送っていて不快感を前提にしか行動を組み立てられないと推察できる。でも面々の不快な日常は自らが環境や運命を開拓しないで快楽を得ようとする怠惰な生き方の結果だと言えようか。面々の不幸は不愉快な現実の中にいること自体ぢゃなく他人も自分も幸せになる想定外の快楽を全く知らないオトナにされてしまったことだ。
もう面々が不快感だらけの空間から
脱出するには自分の生き方を一瞬に破壊しちゃうような強烈で衝撃的な出会いが必要か。

儒学の命はリアルな手本

儒教の基本文献に春秋があり礼記があり書経があるというの。これらが過去のエピソード集だというとこに重要な意味が隠されているかも。残りの詩経易経はエピソード集とは言いにくそうだがシチュエーションの集まりだとするとシンボル化あるいは抽象化されたエピソードの集積と見ることもできる。このごろ読むのが江戸時代の本ばかりで感覚が少し変になっている自覚はあるが江戸時代と現代の知性の間に巨大断層みたいな裂け目が走っているのを実感するよになっている。そして昔の本を透かしてみたら特に現代の言論に感じていた疑わしさや気持ち悪さや危うさの正体が判ってきた。江戸時代の経済学書や記述書だけでなく文学賞の冒頭は大抵が儒教的な世界観をベースにした道徳基準だ。しかも書かれているのは朱子学風の抽象概念のオンパレードになっている。これを表面的に見たら儒教が抽象的な道徳項目で人間を支配する思想だったようなイメージの証拠になってしまう。でも朱子学そのものの土台の中心になっている性善説格物致知の価値観も主に孟子というエピソードの書から出発していることは見落とせないか。
確かに儒教で特別な重みを持つ論語のエピソード性は他の基本文献より薄い。これは道教での老子道教経と似た感じだが論語が四書を必要としたように老子荘子を不可欠な相方にしている。エピソードによる記述には抽象的な価値観や道徳観を端的かつ具体的に表現するという機能があることは簡単に解るが他にも無視されがちだが深い深い役割がある気がする。それは除去からの全ての提案が触れ込み上は事実に基づくアイデアであり実現可能なケースだということ。この実現可能性こそが儒教の保守性の理由に違いないし保守的ぢゃなきゃ儒教のリアリティーが失われることにもなると言える。もし儒教が無責任に想像上の理想を提示し人間を架空の基準に服従させようとする思想だったら儒教は元からエピソードから自由でいられただろう。残念なのは当初の朱子学が実践的すぎたために具体的行動基準の教材をエピソードではなく各個人の経験に求め切ったために皮肉にも基本原則となる簡潔な概念だけが後世の教材として残されたことだったか。ただし江戸時代の実学の世界だけには儒教のエピソード指向は健全に残されていたようで多くの政策や技法に関する提言は頭から出て
きた抽象的理想ではなく観察から解明された因
果関係を基準にしている。そのため江戸の実学は対象に所期の状態を操作的に無理強いするよりも内在的な志向性を刺激する手法が主流になっているよに見える。このエピソードもしくは体験の集積が儒教の無敵のプライドだ。

またも是非論

眞子さま小室氏との婚約延期騒動。またしてもワイドショーで発言する優等生みたいなインテリは最初から結論が決まっているモンキー型の是非論の方に話を持っていく。今度の論理は結婚に親の許可は必要かなんだが当然ながら結論は結婚は当人だけで決めるものだってぇのが結論だ。しかしワイドショーという神聖なる空間で語られるのは是非論ぢゃない。それは話の登場人物の中で誰が最悪なヤツかという切実な好き嫌いの問題だけだ。そりゃインテリの面々は多様な利害が衝突する現場の不自由な空気なんかには脅かされない場所で法そのものや法のバックにある民主主義なんかに照らして物を言ってられる。でもワイドショーが写し出す世界は嫌なヤツが現れたときに法律や民主主義が逃げ場にならない待ったなしの世界なんだ。しかも優等生インテリの論理の根底にあるのは公正な視点というよりゃ自分たちが誰にも邪魔されず常に自分の価値観を最優先して生きたいという赤裸々で身勝手な利害感情である。でも面々の追求する利害の根拠は日本国憲法や世界人権宣言で実際に人間が実現できた現実の手本なんかぢゃない。こうゆう架空の規定を現実の状況と混同する本末転倒
な発想は昔のソビエト政府が法の規定を根拠にソビエトでは土地を巡るトラブルは起こらないと豪語していた論理と変わらない。これらは社会の中での人間にとって望ましい架空の状態を示すものだが描かれているのは誰一人とて行ったことのない創作上の国な風景だ。そこに住んでいるのも法や民主主義から生まれてきたきた幻みたいな人たち。もちろん人間が望ましい社会を作るために努力するのが我らの本道なのは間違いないがノンキな優等生みたいに望ましい社会が当たり前なんだなんてのは本道でも何でもない。個人的に思うことだが人間は憲法や人権宣言から生まれてきたんぢゃなく夜の又から生まれてきたんぢゃなかろか。

魔神よ!頼むから連中を魔法の国に連れてってくれぇ!

最近になって他人の親切を迷惑がって拒絶する輩が激増しているようだ。どうやら他人による介入を嫌っての所業らしい。この奇怪な状況は人間関係の濃すぎるイスラム社会ぢゃ絶対に出くわさないに違いないと推察した。時々ながら人から聞いてもいたし何度か自分も遭遇している状況。これは先日の話だが60代と見えるオバサンたちが7〜8人で聖地の[神聖なる]路上で群れをなして何か話し合っている。とうやら目的地への道順がわからなくなったらしいので何か困り事ですかと声をかけた。だが何もなかったように無反応である。まっぺん探している場所を訊くと口々にダイジョーブですという答え。こうゆうことが聖地でさえ数回か起きているが面々の独特のザツな振舞いや身の周りへの配慮のなさとかオシャレとは程遠い普段着姿とかから明らかにに東京近郊のベッドタウンから出てきた輩と読めた。この気持ち悪いまでに徹底した秘密主義と閉鎖性の蔓延は何を予兆しているやら。日本人が怖がるイスラムより遥かに不気味ぢゃん。イスラム社会の感覚では人間は一様にアラーの作った世界を共有する同じ創造物だ。
少なくとも仮に敵対的ないし緊張的な関係にある者でも交渉の相手としては関わりを持つべき存在になる。先日のオバサンたちは何者なのか。安全すぎというより過保護すぎの日本社会の生ぬるい環境の中で他者との交渉能力というオトナの基本的能力まで失った社会的怪物たちだったか。おそらく通勤電車内で幼稚な動機から起こる暴力沙汰も最初から喧嘩腰で始まる近隣トラブルも交渉能力の欠落と関連してそうだ。こうゆうオトナたちは確かに増えている。かつて国語史の特訓を頼みに来たベッドタウン野郎がいた。基本的知識の程を確認するために全体的な話を始めようとしたら時間がないから用意した質問にだけ答えて下さいと言うんだ。質問のレベルからして基本も出来てない野郎だと解ったから丁寧な対応も無駄になった。万事が万事で自分の要求に効率的に対応してくれる他人ばかり求めるオトナたちを見ていると逆さにして振ってみてもオトナの知性は一粒も落ちてこない。みんな絵本の中に帰ってほしい。もう不思議な不思議なアラビアン・ナイトの魔法の国にでも閉じ込めてやるぅ。

アニータぢゃないんだからぁ

秋篠宮様も正月から酷い目に遭われておられるような…やはり今年のワイドショーの最初の大物はパラリーガル小室氏になりそうだ。小室親子の主張によれば元婚約者A氏が返済を求めている400万円は好意に基づいて贈与されたもので返済の必要がないものと認識しているということだが世の中には誰かの球状を見かねて無償で巨額の援助をする人々がいるのは否定できない。ただ400万円もの財を気持ちよく頂戴できる人も珍しいか。小室氏の主張が正確な事実を反映しているなら今回のゴタゴタは極度に希有な人同士の常識を超えたデラックスなトラブルだとも言えそうだ。そういえば似たようなフレーズを聞いたことがある気がして仕方がない。考えているうちに急に思い出したのはアニータ・アルバラード氏の明るい一言。向こうが勝手に持ってきたんだから知らないよぉ。