ワイドショー復活のツボは?

ワイドショーの本願は誠実に平穏に生きようとする庶民が覗き見できない怪しくも下世話なる世界を安全に開示することにあると見つけた。そこで庶民は自分の生活感覚を基準に人間の生き方というものを考える。だからワイドショーには怪しさは欠かせないけど浅薄な正義の無理強いは不要かと。出演者が正論を背景に特定の人物たちを口々に批判する景色はワイドショーとしては明らかに気持ち悪い。ワイドショーでは自分たちの住む煩悩の世界の不気味さバカバカしさを再確認できれば充分だ。しかし今や庶民の感覚ならぬ市民の正義の植民地と化した現実のワイドショーでは怪人たちを根っからの悪人に仕立て上げて吊し上げなけりゃ市民好みの世界観が全く成り立たなくなると言えようか。そもそもボスや独裁者たちが実際に専横の限りを尽くしていたとしても今風のワイドショーが正義の告発者として扱う面々が果たして正義を反映してるのかも疑わしい。大体において告発者の面々というのは何とも根性の悪そうな融通の利かなそうな気位が高そうな過去を根に持ちそうな要するに飲んでて楽しくなさそな嫌な人物のオンパレードぢゃなかろか。しかもニヒルな目で見れば正義
の告発も単に利権の奪取や増大を求めているに過ぎない気も。見方によってはマスコミが描く正義と悪徳の闘争という図式の内実も結局は少しだけ卑しい面々が物凄く卑しい怪人物に喧嘩を仕掛けているだけのことにもなる。これがホントに正義vs悪の戦いなのか。それこそ怪しい。ワイドショーが生き生きとした姿と瑞々しい魂とを復活させるためには不毛なる二元対立的是非論を捨て去り目の前の闘争そのものを醜い醜い泥仕合として下世話に下世話に追いかけるしかない。どこまで行ってもワイドショーの真骨頂は化け物屋敷の魅力なのだ。ああ昔は良かった賢かった。

どうでもいいけど柴手水って密教?

昨夜から涼しいので今朝は暗いながらも心地よいか。変質したワイドショーは相変わらずジャーナリストや弁護士たちの正義が暑苦しい。んなら残っていた抹茶でも飲んで幽玄の世界を味わってやろか。岡倉天心の本なんかでも茶道の世界観といえば禅や仙道からの影響が指摘される。実際に千利休その人も大徳寺に出入りしていたことも知られているし茶道と言えば禅みたいな話になっている。これは基本的に正しいんだけど南方録の滅後の部分を読んでいたら柴手水という後ろ手で揉み手する変な所作が実は密教の略式作法の反映だったんだとか書いてあった。そうゆうもんだと思ってみれば特に何ともない話だけど茶道は禅という先入観があるから何か巨大な発見でもしたよな変にエキサイティングな気持ちになった。柴手水も当時から謎の所作になってたらしく色んな人が好き勝手に説明を加えていたらしい。南方録の滅後の部分には利休没後から間もない時期でも茶道の所作の由来や意味が忘れられていて憶測に基づく説明や誤解に基づく的外れの演出なんかが横行していたことが見えて面白い。例えば「灯籠の残り火を愛でる」なんてのを聞いて灯籠の火が消えそになると風避け
を外して直に火の様子を眺めだす人が出てきたり。勝手に勘違いして勝手に教えて勝手に定着させちゃ
う。こうゆうので文化が思わぬ方向に進化することもあるかも知れないけど明らかに工夫による進化とは本質が違うものだ。でも文化は南方録が生き生きと描いているように生き生きと劣化したり修正されたりしながら進歩しているんぢゃなかろか。少なくとも言語なんていう究極の文化現象なんかは大きなスパンで見れば南方録の嘆きなど足元にも及ばない堕落と劣化と的外れを繰り返しながら生き生きと発展しているようだ。