胸のワクワク感で開運OK?

開運の道を極めるためには人心を惑わす悪質宗教なんぞに貴重な時間を捧げている惜しい人々の話を聞くのも悪くはない。どうやら悪質宗教にも見識が特に広くない素直な人々を感動させる程度の秘術があるようだ。大体が悪質宗教の提供できる自慢の餌は開運くらいなもんで他には何もない。そんなら悪質宗教にも検討の価値くらいはありそうだ。宗教体験をめぐる様々な体験談や宗教的文学作品に加えて実際の体験者への聞き取りによると宗教的感動によって偶然の一致的な体験も明らかに増えるようだ。そのメカニズムについての合理的な説明は難しいが奇跡体験を単なる思い込みとして片付けるのも面白くない。しかも思い込みだけで開運気分が演出できるなら思い込みの作用を積極的に利用しないのは損である。少なくとも心理学的事実としては思い込みが人間の意欲や活力を爆発的に高めることは知られているから宗教的感動にも実質的な作用が期待できる。当初は儀式や修行に利用される単調なリズムに何らかのツボがあると考えていたが少し見立てが甘かった。色々考えて宗教的な感動を身体感覚で読み直してみると体験者が実感したのはスピード感を伴う持続的なワクワク
感だったと判ってきた。より具体的には胸の真ん中あたりで感じる心地よい流動感と言えるか。結局のところ宗教的な開運体験談の背景にあるのは超越的チカラというよりは特殊な身体感覚だったと仮定できそうだ。個人的な観察によれば人間なら誰でもが感じ得るワクワク感はスピード感と表裏一体の関係にありワクワク感とは本質としてスピード感という身体感覚の心理的な表現だと考えられた。例えばバイクか何かで長い海岸線なんかを爆走しているとこをイメージしても自然にワクワク感も高まってくる。このとき不快な観念も弱まっていることには誰でも気づけるに違いない。ただし外的刺激やイメージによるスピード感は時間とともに減衰する上に場合によっては普段の不快な感情がリバウンドしてくることもある。そこで悪質宗教は様々な方法で普ワクワク感を巧みに定着させる。それだけなら悪質宗教も特に問題にならないが悪質宗教の場合にはスピード感やワクワク感と珍妙な信念を条件反射的にリンクさせ心を支配する。んなら我らも元々から人間に備わっているワクワク感の創造的な作用を悪質宗教抜きで再現し定着させる方法を考える。まず身体自分の感覚を意識し
ながら歩くか歩いている状態をイメージするかして快いスピード感を把握したい。次いで自分の胸の真ん中あたりでスピード感を受け止める。これを何度も繰り返したらスピード感がワクワク感に変わり感覚が次第に大きくなるはずだ。これを定着させるのは意外と簡単でワクワク感それ自体を機会あるごとに思い出すだけだ。ホントに面白いのはワクワク感が強まるにつれ自分の判断や行動に悪影響を及ぼしていた記憶や連想や観念の干渉が激減するし意欲や活力も高まってきことた。こうなりゃ勢いでマーフィー理論もワクワク感を土台に読み直せるかも。もう開運モードに確かな手応えが!どうせ悪質宗教の売り物は開運くらいなものだから自分で開運できれば多くの善良な人々が悪質宗教なんかに人生を捧げる必要もなくなるぞ。