山根会長は三人称化の魔力

日本ボク○ング連盟の○根会長が興奮すると自分を表す言葉として自身の名前や肩書きや称号を用いて形式的な三人称で自分自身を語る。これには異様さと同時に一種の典型性も感じる。とにかく変なのは自分自身を語ってるのに誰かが他人を語るような表現を選んでいるところだ。つまり興奮状態の会長は自分自身の目線ではなく自分を称賛し崇拝する架空の誰かの目線で自分を語っていることになる。この手法そのものは別に珍しいものでもないし異常なものでもない。例えば皇太子殿下の御婚発表約会見のときの雅子妃の御言葉にも現れているが特に世間は御言葉に異様な印象を受けることもなかった。このときに雅子妃は皇太子殿下が妃殿下に対して語られた御言葉を全て直接話法の形で引用された。このような手法を使用するのは誠に畏れ多い話だが礼儀としては非常に問題な習慣だった。このように自分に対する他人の敬語表現を直接引用すると自分に敬称を付けたり自分を敬語の対象にしたりできるが悲しいことながら日本語の敬語用法としても極度に手抜かりで結果的に勿体なくも皇太子殿下を御自身より下の位置に置く形にしてしまうことになった。これは庶民では普通の
手抜かりだから当時の雅子様が庶民出身だったことを考えれば特に責められ道理もないし今や皇室に入られた妃殿下には上のような不覚な過ちなど犯されるはずもない話だろう。さて雅子様の手抜かりは庶民になら当たり前の失策だが○根会長の言語的態度が極度に異様なのは表現が引用ぢゃないところだ。あるいは興奮したときの言葉の全てが架空の崇拝者の言葉を借用しているとさえ言えるか。もう会長自身が誰だか解らない架空のナレーターになって自分というドラマを自分自身の声で熱く語っているなんてレベルだ。おそらく○根会長は人並み外れた嗅覚で言葉の魔力を利用して自分への崇拝的態度を原稿の世界で既成事実化する術を発見しし元々いない大応援団を見事に現出させたのだろう。少し気になる似たよな例は松居一代さんの一人称の「この私」だ。要するにに私といいながら指示詞を掛けることで結果的に三人称に変移できる。まぁ単なる俺様言葉の活用だと言えは言えるか。ただニーチェが「この人を見よ」と言とた対象はニーチェ自身のことだったように西欧語では手法として一人称や二人称を三人称で表現することで人間に特殊な立場上のイメージやニュアンスを
与えられるから三人称化には何かの普遍的な魔力があるのかも。そのテの三人称化手法を使う人は自分をドラマ化して大きくみせるのが好きなようで話に劇画的な単語を混ぜ込む傾向が強いものらしい。○根会長も男の花道やら体を張ってやら世界的やら。しかも単語を混ぜ込むのに夢中で構文なんかは滅茶苦茶になっちゃう。この人を見よ!

ワイドショーが暑苦しい。

ワイドショーが正論を語り出したら終わりだ。もう暑苦しいばかり。ホントは誰もが欠陥や悪意を抱えながら生きているという厳粛な事実を前提にしているからこそワイドショーが悪や怪しさを扱えるのだ。そこで問われているのは人間が法律通りに正しく生きられているかよりも正しい生き方を自ら求めようとしているかだけだ。それをワイドショーに正義や人間的な成熟や立派な生き方なんかを要求されたら人間には逃げる場所もない。ワイドショーは正義を学ぶ正義の学校ぢゃない。悪から生き方を探る迷路なんだ。