雨の日の訪問者

anesti2013-01-15

鳴かないと忘れられるぜホトトギス!昨日はエホバの証人のT氏が雨のなかお訪ね下さいました。小生にとってもエホバの証人と言えばセールスマンと同様に迷惑な訪問者なのですが、このT氏だけは例外で、なんとなく人間同士の会話ができる人なので、むしろ訪問を受けるのが楽しみなのです。昨日は30分ほど話をしました。全てがビジネスになる代わりに何をするにもお金が要る世の中だなんて話になりました。人間にもう少し思いやりがあれば、あまりお金を媒介にしない豊かさもうまれるのになんて神父様みたいな甘いことをシミジミ考えてしまいました。T氏は昭和30年代から機械メーカーに勤務されていた方で定番の聖書の話だけでなく、社会に対する意見や昭和な思い出話も聞かせてくれます。昔の会社や工場の空気が時代によって変化してゆく様子や、国の違いが機械のメンテのやり方にどう出るかなんて話もドキドキしながら聴くのです。昭和30年代の会社は忙しくてもノンキで暖かだったとか。それが昭和50年代に入ると人間性など入り込む余地もない息苦しい世界になってしまったそうです。その頃から下請けに対する元請け企業の態度も急に冷酷無残にな
り無理難題
を押し付けるようになったと嘆いていました。こんな嘆きがT氏の信仰の原点になっているという気がします。義に飢えている者は幸いです。それ以外にも世界史の話をよくします。とくに世界史上の大帝国の滅亡過程の話は身を乗り出して聴いてしまいます。確かに旧約聖書も国家滅亡の歴史として読むとその意味も深まりそうです。T氏のいう通り、旧約の内容は自分とは無関係のない、遠い国の歴史ではありません。そこに記されているのは間違いなく今も相変わらずの人間のバカさ加減です。実際に現代でもユダヤ人は旧約をそう読んでいると聞きます。国家の滅亡!さすが世界の終末を訴えるエホバの証人のT氏です。T氏も含めてエホバの証人の方は総じて様子が良くて優しそうで、純粋な疑問に対しても誠実に答えてくれます。しかし他のメンバーは何かが、何かが違うのです。その違いは何でしょう。考えました。どう言ったら良いか、他の人には人間的な余裕がないというか、機械的というか、相手に向き合う態度が変なのです。彼らは教理についての詳細な知識もあり、聖書の記載も電脳なみの速さで検索できます。しかし人間は理論の整合性のために説得されるとは限
りません。本人たちはそう信じているのかも知れませんが、本人だって自分を感動させたのはそんなものではなく、仲間のメンバーが見せる日常の誠実な生き方だったと内心では知っているはずです。とかく宗教は自分たちの教理の整合性を誇りますが、そんなん生きた人間の心にとっては屁〜のようなモノだと感じます。それに教理なんて大体がどこも同じ程度に筋が通っているし、一方で同じ程度にインチキなもんです。結果は生活の上にしか出ません。社会的な価値とは無関係に誰かにとって取り替えの利かない暖かな記憶になれれば良いと信じています。