文学、人間、ノイズ

anesti2013-02-14

 今日は2月の14日、さすがの修道士も今日だけは少しだけ憂鬱になります。チョコレートもハートもない日を過ごします。
 昨日も今日も変わらず特に何もないという事実は、良い意味でも悪い意味でも確かに何かの意味で一つの出来事です。なぜなら、その「無」は背景も余韻も展望も日々異なる「無」だからです。
最近は物理学・量子力学のK氏や、イタリア文学のT氏、朝鮮語学のT氏あたりに電話で無理やり連絡を取っています。これは最早ある種の乱入ですが、たった10分でも、電話を通じての肉声による対話は情報交換以上の何かをもたらしてくれます。それはコミュニケーションの手応えとかいう感じのものです。
 全知全能なるキリスト教の創造神でさえ肉体を帯びて人間のなかに姿を現し、人間とともに生きたのです。それは神と人間とが単なる情報交換さえできればOkという関係になかったからに違いありません。ましてや人間の世界ではその意味の重みは大きくなると感じます。人間同士の繋がりが特に情報交換だけで確保できるなら、電子媒体があれば十分という現代です。しかし時には近くに座っていることでしか互いの思いを伝え合えないこともあり得ます。おそらく今後の電子媒体の発達は、互いが直面しているリアルな社会状況の共有抜きの人間関係を促進することでしょう。聖シメオンのいうように神の人間化は人間が手本にすべき隣人に対する謙虚さのモデルです。言葉=ロゴスはロゴスだけではダメです。肉体が、少なくとも肉体性が必要だと感じます。言葉に手触りを!
泉鏡花の『春昼』という極端にモヤモヤした作品には、三浦半島里山あたりを散策してきた主人公と寺の住職との奇妙な対話の場面が描かれています。対話のなかでナゼ仏像が必要なのか、とかいう話題が出てきますが、住職は物凄くユニークというかワイルドというか、とにかく意表を突く説明をします。もし誰か恋する相手がいたなら、きっと近くにいたい、抱き締めたいと思うのが人間の自然な感覚だろう。それで仏様にも姿形が必要なのだ、というようなことを語るのです。
 人間には感情があり、それを表現したりぶつけたりする対象としての肉体性が必要かと思えます。タルトゥー学派の代表人物の一人であるユーリ・ロトマンは、科学の言語と文学の言語との違いは、情報的ノイズの扱い方の違いだとかいう指摘をしています。科学の言葉のなかではある事実や状態を伝える上で、必要でない情報やアイマイな情報は死ぬ気で排除されますが、文学の言葉はそれとは逆です。それをロトマンは窓から見える景色というモデルで説明します。窓枠のなかの景色は文学の言葉によって表現された事実ですが、確かに文学の言葉はその窓枠の外に広がる世界に関する情報も伝達していきます。文学に描かれる人間もそうです。文学作品のなか人間は単純に場面にリアリティーを与えたり、状況を展開させたり、ストーリーを進めたりするるためだけの存在でないことは直感的にわかります。小説を読む人はそれ以外の、そしてそれ以上の何かを求めて人間の動きを追っているに違いありません。
ある意味で作中人物の肉体性は情報的なノイズになることがありますが、それは文学には不可欠のノイズになります。ましてや現実の人間のコミュニケーションでは多くのノイズが介入してきます。もし人間の間のコミュニケーションが情報伝達や情報交換のためだけに実現しているとしたら、生身の人間の言葉に自然に反映しているその日の気分や、その人の生活歴や相手に向けられた思いなんて猛烈に排除されるべきノイズになります。
ウラジーミル・イリッチ・レーニンは人間の言語表現にはそうしたノイズが付き物だということを早くから指摘していて、特にそうした人間的なノイズが文学作品に反映されることに「流露」という呼び名を与えています。おそらく流露は全ての言語表現に現れる現象ですが、それは排除されたり無視されたりすることもあり得ます。しかし場合によってはノイズとノイズの交流こそが人間的なコミュニケーションの本質になる状況も少ないないような感じがします。
アメリカにもマトモな心理学者がたくさんいるようで、例えばグリンダーとバンドラーなんてキャラクターみたいな名前の二人組は、「あいさつ言葉」がもつ表面的内容には意味はほとんどなく、実際には「ちょっと話でもしましょう」とか「あなたとは上手くやっていきたいんですよ」とかいう言葉にパラフレーズできると説明しています。これは機能主義言語学の意見と一致します。
 そういう見地から観ると、この「あいさつ言葉」には物凄く巧妙な仕掛けが施してあることが理解できます。日本では「天気」が、フランスでは「元気」が、そして中国では「メシ」がそうした機能をもった話題になるのです。もしそれらの言葉に「イエス」と答えたばあいには「通り一編の会話」が始まるサインになり「ノー」と答えると「少々込み入った」会話へのサインとなるように決まっています。つまり「あいさつ言葉」は一方でノイズの少ない、当たり障りのない会話や