テレビ難民

最近の夜は読書に調べものに文章分析、あとはウォッカという景色になっています。このごろはテレビ中毒患者の自分自身でも不思議なくらいに夜のテレビ番組を見なくなりました。しかしテレビを見ないのは勉強が忙しかったり面白かったりするせいではありません。テレビが、特に夜のテレビがゼン〜ゼン面白くないからです。だいたい毎晩のように思うのですが、最近の(夜の)民放のテレビ番組、どうやったらあんなに退屈で面白くない内容に仕上げられるのか!その疑問のために今宵も苦しみ悶えるのです。ホントは小生だって夕方のニュースが終わるやテレビにカジリ付きたいのです。ああー、それなのに!7時過ぎればテレビはゲーノー人をターゲットにしたドッキリに、サバイバルに、能力チェックに、たまに番外で大家族と衝撃映像100連発。そして残りは全て有吉!!…、こうなると昔はクサクサしていたゲーノー人の楽屋話なんかだって相当マシな方に見えてきます。元々頭脳の八割がテレビで出来ている小生、いくら勉強が楽しいとはいえテレビ抜きというのは地獄です。テレビ難民と化した小生は、流れ流れた末に仕方なく某公共放送のダラダラした
番組やテレ東のビジネス系ドキュメントに救いを求めるのでした。それで結果的にNHKとテレ東しか見ないという田舎のジイサンみたいな人間になり果てたのでした。昨日の夜は歴史秘話ヒストリアに続いて爆問学問などタンノーしましたが、爆問学問で敬愛するアラマタ先生が溜め息混じりにシミジミ言った言葉は忘れられません。曰く:「テレビは面白かったですよねぇ…」。「面白かった」!、この過去形が明らかに言語学でいう遠過去を表していたのが非常〜に痛かったです。テレビが退屈だ!他の仲間に聞いてもこれは間違いないようです。これじゃ若者がテレビ離れしても当たり前です。いや、それ以前にテレビを唯一の楽しみにしている全国の高齢者までがテレビ離れしていく予感さえ感じます。でも詰まらないのを嘆いているのも詰まらないし悔しいので、ナゼ面白くないのかをアラマタと共に内省してみました。蛯原:「最近のテレビ、面白くないですよねぇ」/アラマタ:「ボクも本質的にはテレビっ子なんで、それ同感ですよ」/蛯原:「なんで面白くないんでしょうねえ」/アラマタ:「それを考えると今夜も眠れませんねえ」…こうして架空対談をしながら最初
に考えついたのは、最近の番組が文化記号論的には全く同一の機能しかもっていないということでした。それは「ゲーノー人をテストする!」というコンセプトです。言わば「無茶ぶり番組」。おそらく今のバラエティにはそれ以外の何もありません。そうゆうものが一部の特定の階層にウケるのは事実でしょう。だから日テレ名物の24時間マラソンなんかがウケるんだとも感じます(あれは元々一回だけの企画だったのが定番化したものでした)。ですから多様な番組群のなかに、その手のモノがあるのは健康的で良い話だといえそうです。しかし全ての夜の番組が無茶ぶりモノ!となると話は別です。無茶ぶり番組がナゼにウケるのか?その議論は別の機会に譲るとして、無茶ぶり番組がナゼ面白くないのかは今すぐ検討したいテーマです。まあアラマタと共に色々考えた結果、一応の結論めいたものが出てまいりました。どうも無茶ぶり番組には古代ローマの殺戮ゲーム見物みたいな要素が濃厚だということです。そこには博物館や美術館や劇場とは異質な快楽しかないという感じ。楽しいけど、だからどうした!という感覚です。一見して普通のお笑い番組と同じに見え
ますが、本質的に違う点があります。おそらく無茶ぶりモノの中核にあるのは他人の失策を見物する快楽なんです。番組によってはグルメやブラリや探検的な要素も交えていますが、それらの情報は単なる舞台装置に過ぎず、特に情報として視聴者に提供されてはいません。まるでお土産ナシの宴会みたいな楽しげだけどオトク感がない世界でしょうか…しかも、ゲーノー人も効果装置として利用されているんです。本来退屈な失策見物モノ、ゲーノー人の失策だから見られているんで、特に興味のないゲーノー人が出てきて失策しようと何をやろうと、まあ面白ビデオ程度にしか嬉しくないだろうと推察できます。ところで、こうゆう無茶ぶり番組作りは日テレが大好きみたいに感じます。だいたい電波少年やら24時間マラソンやら、世界仰天ニュースの中のダイエット・コーナーやら、あるいは初めてのお使いやら、日テレは実は無茶ぶりモノの魔力を知り尽くしている退屈番組の大本山みたいな局なのではなかろうかと思えたりします。そういえば日曜7時の「鉄腕ダッシュ」は、日テレなのにナゼか耐えられるですが、その秘密は、もしや失策でウケを取ろうという狙いが全くない
からなのかぁ!小生、またまた大悟しました。なーむー…。