フテ寝も座禅も同じようなもん。

もう飽きた鳴かなくていいホトトギス

老子荘子:「最近の情報化社会ってのは健康に悪いよね」。先月の始めから愛用の雷電丸が見当たらなくなり、ひどくヤル気をなくしました。その勢いか、そのついでか急に思い立って恐ろしく長い間、ひたすら座禅していました。座禅をしていて解ったのです。座禅は無念夢想とかを目指すと世間では言いますが、どうも別の何かがありそうなんです。なんというか意識や考えが無くなるというよりアタマやカラダが普通とは別のメカニズムとか論理とかで動き出すという感じがあるんです。こうゆうことを昔から指摘していたのは中国の道家の人たちのようです。情報を減らすと健康に良い!といっていた道家創発は情報と身体を一括して一つの問題意識のなかで取り扱おうとしたところだと思います。実際に道家だけでなく中国禅なんかのメディテーションの過程は身体と情報という2つの世界に対面する仕掛けになっています。メディテーションを身体的経験として読み直してみると、そのとき経験される特殊な感覚は、乱暴に言えばアタマを使いすぎて脳内がガンガンしている状態の対極にあるものです。アタマを使った後とかにはアタマの中には鼓動みたいな感じや重い異物
感みたいなものなど、確かにリアルなモノ的な感覚があります。メディテーションの中では、それがスッキリ消えていくのが確かに実感されます。どうやらアタマはメディテーションでもしない限り何日も疲れたままになったり、膨大な情報が整理されずに放置されたり、脳自体のスイッチを入れたままにされたりという状態に置かれるようです。医学/生理学博士の黄美光氏なんかは気功の実体は脳内の高度な休息実態のことであるとの仮説を出しています。しかし脳の休息とは非活動を意味しないようです。メディテーションでの脳の休息とは過剰適応状態になっている脳を一度デフォルト・モードに戻すことだと理解できます。最近の脳科学では脳は動かさないとガンガン退化するとのこと、認知症のなかにも廃用性のものもあることが明らかになってきましたが、これは外部環境に適応する領域での話で、その意味では確かに脳はフリーズしまーすっ!なのです。その一方で脳の高度な領域にも外部環境に左右されず常に活動している部分も確認されているとのことです。これまでの近代主義的な人間理解では、外部環境への適応のみが脳の高度な機能だと思われていたのですが、セ
リエのストレス学説以来、どうも脳の活動それ自体が意識や身体の負担になることも次第に明らかになってきたようです。
皆さんも座りましょー。