ニセモノほど張り切る!

話題は変わってイスラムの噂。昨今イスラムの名によるテロが横行しておりますがテロは嫌いになってもイスラムは嫌いにならないでください!ありゃ明らかにニセモノです。昔からニセモノほど妙に張り切るし妙に張り切るほど本家が嫌われて迷惑するんです。そうゆうの身近で見るでしょ。所感:イスラム国もしくはイスラム系テロ集団を動かしている動機の正体はコーランに厳然と記されているアラーの願いや構想というよりサラセン帝国の聖戦士なんかみたいな歴史的キャラとの心理的同一化に過ぎないようだ。これはオウムなんかにも見られたような代理満足の手段であり幼児的な快楽追求の発露でしかない。いわばオトナの○○ごっこだ。イスラムという宗教名の語源はサラームと同じくS、L、Mという語根に由来する。このS、L、Mが平和やら従順やら平安やらと関係した意味の集合であることからも推察できるようにイスラムの究極の目的が平和の実現にあると予感できる。悲しいけどイスラムの長い歴史の中では確かに正義の名による暴力が繰り返されたし異教文化の徹底的な否定と破壊が遂行されたのも事実のようだ。しかし歴史に刻印された事実のみが宗教の実態
/実体なのか。あるいは担い手の行為とは無関係に想定され得る本体こそ宗教の本質なのか。これは答えにくい問題だ。おそらくイスラムの担い手たちの行為のかなにイスラムの本質とかアラーの構想とかを忠実に体現されていたのかを推察するにはコーランの記載と預言者ムハンマドの言行録の核心的テーマを総合的に解明する他はない。それによってのみモスレムが実行すべきことが何なのかも明確に把握できるはずだ。実際に記録群をテーマ群という側面で読み直したとき慈悲や寛容や人間的度量なんかが暴力的な布教や残酷な刑罰の遂行よりも上位に置かれた本質的なテーマになっていることが解る。暴力による正義の実現や異教への敵意に基づく自意識の確認なども含めて考えてもイスラムの歴史に一貫して維持された内的使命は異教よりも確実な平和を人間の上に実現することだった。預言者ムハンマドの時代には間違いなくモスレムは全員が元異教徒だった。つまりイスラムが開教した時から変わらず人間は誰でもイスラムに帰依する可能性や権利をもっており異教徒は必ずしもイスラムの敵ではなく逆にモスレム予備軍だった。コーランのなかでも人間は基本的にアラーの愛
の対象でありアラーの前で平等に価値ある存在と定義されている。だからコーランは人間に対して主体的な選択を迫ることはあっても奴隷的な服従を強要することはないように見える。そうゆう前提から言えば人間が自分の意思によって服従するのはイスラムの教え→つまりアラーの意思のみであって特定の人間の構想などではないことになる。要するにイスラムの本体に迫るためには手段としての行為の歴史と目的としての超歴史的使命とが明確に区別されるべきなのだ。改めて世界が平和になりますように。インシャラー。