「観」ぢゃ開運は無理?。

昨日の午後は暖かかったし景色のいいとこで琵琶でも弾いておこうかと思ったが少し迷ってモゾモゾしていたら例の宗教勧誘の訪問だった。もう不愉快な一日になった。もしや昼頃に近所の○国女が家の中で怒り狂っている声を聞いちゃったせいか。それよりも自分の中の打算や作為からくる迷いが行動のタイミングを狂わしたせいだろう。んなことは経験と思惟を通じて痛いほど解っていたのだが解っていることが自然に行動の上に現れるまでには少し時間と修行が必要かと痛感した。仕方ないから一つ余計にケーススタディが出来たと自分に言い聞かせた。そして今後こそ思い立ったら動くへき時に動くことにしようと何度目かの反省をする。一年と少し観の修行を続けたら色々と変化が起こりだした。心の中で迷いや作為や打算が動く様子が把握できるようになると気持ちの余裕が大きくなったし呼吸や動きがザツでなくなったし場面ゝゝで早いリアクションが取れるようになった。要するに動作の迷いがなくりはじめた。これは単純に物事を原因と結果の関係の中で見る習慣が身に付いてきた結果だ。特に超越的でも神秘的でもない。昨日の宗教勧誘の人のも仏教は超越的な哲学ではないといい。原因が結果に現れるという事実だけの世界だとか言っていたその通りだ。もちろん○○教団の修行をすれば経典に書かれているとおりの結果が出るという
のも理解できる。でも現れる結果も観と大して変わらないようだ。違いといったらメンドくさいキャラになるか否かというところか。しかし昨日の話は頓珍漢だった。もし皆さんとこで現れる結果が別の修行でも得られたとしたら他の宗教も同じくリスペクトできますか?と質問したら返ってきた答えは他の宗教の神なんて架空のものなんですよ。架空の神ぢゃ結果を出せないでしょだってさ。そこぢゃない!そこぢゃない!やっぱりアタマの中が既製品の言葉で一杯なのかな。宗教やると思惟がザツになりがちなんで往生する。同じく往生なら極楽往生したい。