メタボ化した知識

執拗な入信勧誘地獄に落ちたのも自業自得だった。元々自分の内なる負けず心のせいなのだ。ただ今回の不可避的接近遭遇では当方も開き直って限界まで平静さをキープしつつ新宗教の気持ち悪さの本質を解明してみようと決意してみた。まぁ大袈裟な!あの面々の中でも特に頭脳明晰にして弁舌爽かで自信満々なタイプには参る。宗教うんぬん抜きでキャラそのものがニガテである。やはり話していて最初に気になったのは何に対しても俺様は何でも解っているんだぞぉとばかりに迷わず断定的もしくは結論的な解説をし出す習性だ。知識による制圧。これをやられるとアマレスでマウント取られまくってるようで話が続かないし広がらない。当方:「昔のニュータウンは5階建て以上でも階段を登り降りせざるを得なかった。当時の設計思想には老後の生活というコンセプトが入ってなかったのかな[あるいは次世代によるケアが前提になってたのかな]」。答え:「当時の建築基準法にはエレベータの設置義務がなから仕方ないでしょうね。〜〜年に法律が
…」。という具合。当方は設計思想の話をしてただってぇの!また別の場面でも。当方:「宗教ぢゃなくても規則的ルーチンを生活に取り入れれば意識も行動も整ってでしょ。ルーチンを大切にするアスリートも多いと思います」。答え:「ルーチンのことを昔はゲン担ぎって言ってたんですよ。靴下を右からしか履かないとか昼はカレーしか食べないとか。それは単なる気休めなんですよ」。振ったのはジンクスの話ぢゃございません。その上に一通りの蘊蓄や講釈が入るから余計に疲れる。また妙に概念の定義域や適用範囲を狭小にする傾向も気になった。例えば[三島駅話をしているとき]当方:「新幹線ってJR東海のもんなんてしたよね」答え:「いえ東海道新幹線だけですよ」。あれまぁ過剰な厳密さは時に不注意の一種になる。これらの習性や傾向が学習や訓練の結果なのか面々に特有の共通的な性癖なのかは未検討だがコミュニケーションが成り立たない原因は相手の言いたいことにではなく話に出てきた単語やテーマに反応していく態度にあるよな気がした。この特徴は知識を蓄えすぎた人との会話の中にも現れる。とにかく蓄えられた知識は誰かに開示したく
なるらしい。そして知識の開示を優先させた発話では悲しいけど会話の場も目の前の相手も話の流れまでも無視して知識さんというモンスターが独り歩きしてしまうようだ。もはや人が話しているやら知識が話しているやらという景色。こりゃ知識のメタボ化!知識の失禁!でも世間には何かに詳しいけど話が出来ない人が確実に増えている。んで知的会話そのものまで一般人から拒絶されたりする。でも知識が嫌われるんぢゃない。頭が知識に支配された人が嫌われるのだ。