変化の感覚

ZENやKUANの世界は煩悩と格闘しながら修行している感じがして世間の信頼も集めやすいけど密教は異様に盛られた姿の仏様の前で怪しげな呪文を唱えて現世利益なんかを祈っているだけで見るからにバカバカしく見えてしまう。どう見ても密教はインチキ臭いし外から見ていると何をしているかさえ解らない!お陰でインテリ層や現代キリスト教の目に映る密教は加持祈祷で人心を惑わす迷信まみれの怪しい多神教みたいになっている。しかし密教も仏教の一部であるし仏教の立場は基本的に無神論に近い。したがって密教でもキリストの神や悪魔のような意味での仏様の実在性を主張しない。少なくとも仏教では仏様が実在するか否かは大した問題にはならないように見える。んなら多神教の神々を思わせる密教の仏様たちは何者なのかというと全ての仏様は宇宙の働きを具体的に払わすシンボルだ[それは宇宙を構成する各要素の個別的機能だけでなく機能間の関係性も表している]。それは人間にとっては心を迷いから悟りの世界に導く方便の働きだ。お釈迦様が法華経の中で仏様の本懐は全ての命ある者を仏の知見に導き入れることだとズバリ言っている通りだ。だから極言すれば仏様そのも
のまでが人の煩悩を取り去り悟りに導くための方便だと理解することも
可能だろう。そもそも方便は煩悩の数だけあるんだから仏様だって何百いようが困るものでもない。経典に記されたように念じたとき記載内容どおりの結果が出るなら仏様は方便として確かに実在するし体感できることになる。現世利益も人間が執着から解放されたことによって実現するものなんだし経典やマニュアル本に出ている仏様の誓いや願いや働きも究極的な目的は煩悩の解消と悟りの実現だ。そのための方法として経典やマニュアル本では仏様の働きを具体的にイメージせよと指示する。例えば闇の世界を照らす光。例えば目の前で開く無尽蔵の宝庫。一切の病を癒す薬。悪を焼き尽くす炎。万物に命を与える水。雑草を食い尽くす野良馬。それは夏の夕暮れの風。それは周囲に広がる華の香り!全ての変化は自分自身の心と生活の上に現れる体験だ。この体験は本来は個人の心を含めた宇宙の働きだから修法を通じて自分自身の心の枠を超えた[自らの接触している]世界全体の変容へと発展してゆく。複雑すぎる密教の作法を抜きに仏様の働きを観念するだけで相当の効果は出る。といっても作法でこそ観念の働きの凄さが実感できるのも確かなんだろう。それにし
ても密教の作法や観念は複雑すぎる。日蓮様が密教を捨て教えの全てを法華経の題目の中に集約しようとした気持ちが解る。今は4つの問題を考えたい。まず密教には日蓮様のような究極のシンプル化が可能か。次に究極のシンプル化が可能だとすると一切の内容を何に集約すべきか[光明真言か月輪観か大日如来真言か]。続いて単純化し集約化した方法に一切を反映させる手段はあるか。最後に根本的に密教の複雑さ自体に何か意味があるのか。ついでに全てが題目で済むなら題目に落ち着いてもOkか…。こうなりゃ道教