求聞持法の真実は

当方は現役受験ぢゃなかったせいが受験期間中には弱気になっていた。弱気で不安なせいで虚空蔵菩薩真言の不思議なチカラにも頼ろうなんて考えていた。空海が修行中に虚空蔵菩薩様の真言を唱え続けて頭脳明晰かつ記憶力抜群になれたと三教指帰に書いていたので空海と同じく先人の言葉を真に受けて真言を唱えることにしたという話。しかし虚空蔵菩薩真言を正しく唱えるためには特別な施設や道具が必要で複雑な作法に従って一定期間中に真言を100万回も唱える必要があると言われている。んなん実行しててたら受験どころぢゃないから朝と夕方だけ正座して真言を唱えることにし他の時間は虚空蔵菩薩秘密陀羅尼経の記述に従って心の中で日常的に真言を唱え続ける形にした。真言の神秘の威力で見事に一浪で合格!ただし触れ込みどおり超人的な記憶力が身に付いたという実感はなかった。そして記憶力が増進したという客観的な効果は周囲の皆さんにも実感されていない。では何も起きなかったというと言い切れるかというと言い切れない。思えば手元にある陀羅尼経の記述では真言で獲得できるのは驚異的な記憶力ではなく全ての経典の深い意味が一挙に理解できると
なっていた。そうゆうことなら確かに修行の効果が出たと言えないこともない。この感覚は少し特殊で言葉にしにくい。何というか。何かを覚えるときは普通ならバラバラの情報を一つ一つ覚えてゆく流れになるが真言で記憶のモードが開くと一つ一つの情報が知識体系の全体像と二重映しに見える感じになる。それは一つ一つの情報が全体のパーツとなって巨大なパズルを完成させていくような世界で一つ一つのパーツには必ず全体像との関係が浮かび上がるのだった。そこでは一つ一つの情報が互いにヒントになっていて全ての情報が一体化するから記憶が空中分解しにくくなるようだ。例えば金剛般若経という経典には行動が全て空になるという独自の世界が説かれているが同時に他の経典の世界も重なって写り込む。仏の教えは渡し船だなんて句が経文に出てくると法華経の方便品が現れるし仏の姿を忘れ仏の悟りを求めなさいなんて句の向こうには涅槃経が見える。この記憶のモードで見えてきた世界観は巨大な仏様の教えの体系の全体像そのものだと後になって気づいた。仏様の教えは広大すぎて一つ一つの経典には収まり切れない。だから全ての経典では必ず独自のメイ
ンテーマが強調的に示される。それらが集まると仏様の言いたいことの全体像が組上がる。でも実はバラバラなメインテーマの背後にも必ず他の経典への扉が隠されているし教えの全体像を掴むヒントも反映されている。人間が巨大すぎる全体像を見るための知恵…ここりゃ華厳十玄の教えそのものぢゃないか!受験勉強で言えば歴史ならドラマのように人物の関係や事件の背景が見えてくるし数学なら色んなグラフが動画のように現れてくる。そんなふうになる理由とかメカニズムは解らないし菩薩様なんていう超自然的な方が実在するかも簡単には信じられないけど確かに間違いないのは経典に説かれたような心の働きはあるということだ。実際に気前よく知恵を分けて下さる仏様のイメージを繰り返し描きながら真言を唱え続けるという行為には効果があったと言えた。とりあえず真言とイメージとポーズだけでも正しく実行すれば仏様は動いてもらえるようだ。ところで陀羅尼経では理解力は約束されていたが驚異的な記憶力は別だったのか世界史の年号や化学の数値なんかは今なお弱い!求聞持法を正しく行じていたら何が…。