身体の錬金術師

さいころ学校では姿勢を直しなさいと言われていた。しかし姿勢の本当の意味が解るまでには物凄く長い時間が必要だった。やっと今になって判ったのは姿勢は単なる見栄えのよさを作るものではなく多様な分野の身体的な土台だということに加え姿勢を作るには均衡的で柔らかい身体構造と各部を緩めた体勢と心地よい内部感覚の発見が必要だということだった。その発見は個人的には新しい世界との出会いだったが現実には特に珍しい独自の経験ではなかったようだ。おそらく何千年もの歴史の中で数えきれない人々が同じく数えきれない方法を媒介に到達した世界なんだろう。むしろ懐かしい体験の共有か。この出発点から眺めると今までに魅了されてきた色々な世界の共通の芯みたいなものが部分的ながら見えてきた。合気道や座禅や神秘主義。ついでに茶道の世界観や華厳学なんかが身体感覚という一点に帰着してきたようだ。その芯は恐ろしくコンパクトでシンプルだが何か莫大なポテンシャルを秘蔵しているように予感される。なんというやら推理や計略やスキルでは得られない広く厚みのある見通しとか外部刺激から得られる快楽とは質的に異なる特殊な快感とか外力と耳
重以外の抵抗感から自由になった動きとか。んなら今後の流れによっては武術やら宗教やらシステム論から音楽やらまで個別の方法はキレイに捨ててしまって全てを姿勢の調整という一点に収斂させたくなるかもしれない。まぁ芯だけぢゃ面白くなさそうだから当面は日常の工夫と深化あるのみか。思えば関心の中心が知識や思想から身体感覚へとシフトした初めは道教錬金術の世界との遭遇だったか。かつて老子に夢中になっていた時期があったが次に読んだ道教の古典は唐代に書かれたとされる太乙金華宗旨だった。この本には広本と略本があるが略本は広本の冒頭部分がないだけで残りの部分では両者の内容は基本的に同じである。略本は[不老不死の]仙薬は身中にあるので苦労して探したりする必要がないという言葉で始まる。この仙薬を目覚めさせることが道教の修行になる。修行法としては身体の内部に意識を集中して身体感覚を高度に組織化された方法で目覚めさせる形になる。金華宗旨では身体内部の感覚を薬や炉や鍋と表現して感覚の目覚めを薬の精製過程として描いている。その過程は他に様々な方法で実験されたが漢代に書かれたとされる周易三同契と
いう古い道教伝書にある体内の神々を意識化するという方法にも共通の発想が反映されている。まさか道教錬金術の世界が今の発見になるとは当時は思いも着かなかった。