甘い言葉の正体

キリスト:「安息日に人を助けるべきなのか見捨てるべきなのか」…。慈しみ深い友なるイエスよ我らの弱さを哀れみたまえ!このごろの日本は是非論で一杯だ。なにやら誰かを糾弾することだけが正義の表現手段になっているよな。この傾向の背後にはインテリの誘惑の影響があるんぢゃなかろか。インテリ連中の手口に騙されないためには連中の意見の見た目の多様さや多面性の背景にある単純で幼稚な論理構成を見抜いて冷静に対処するのが最善だ。連中の論法のセンターには社会からの悪の排除という目的意識が鎮座している。その目的意識を正当化するために単純で原始的な善悪二元対立論が展開される。それは自明の結論を導きだす極端な善悪の問題を何重にも重ね合わせることによって自説を正しげに見せ相手の反論を封殺する仕組みになっているから気をつけよう。例えば人の命を救うか見放すかとか差別するか差別しないかとか法律を守るか守らないかとか強者の側に就くか弱者の側に就くかとか複数の対立項で相手に是非を問うのだ。もちろん牧歌的な正義を信じている牧歌的な人たちや安全圏で痛みを伴わない評論を楽しんでいる人々や命に変えても正義のために尽くす
覚悟のある特殊な人なら一瞬の躊躇もなく悪より善の方が望ましいとか答えるに違いない。しかし現実はジレンマだらけで一つ一つの対立項もインテリの期待するほど美しく
善悪に還元できないし仮に善悪が明らかな場合でも人間は常に善なる行動だけを選択できる状況にあるとは限らない。望ましくない行為が全て悪意の反映と言えるかどうかも簡単には断定できない。だから望ましいか否かだけを鑑別するにすぎない善悪二元対立論には人間の弱さや非合理性への配慮という要素が極度に薄い!それは確かに自己を律するための価値観にはなり得ても他人を律するための倫理にはなりにくい。ということでインテリが好んで弄ぶ善悪二元対立論は実は低級な還元論の集合体にすぎないのだが巧みにタイムリーなトピックを取り入れ比喩やモデルを駆使することで見事に中身のある議論のように偽装してしまう。この手の論法の使い手が多用な問題を快刀乱麻を斬るごとく鮮やかに斬ってみせるのも常に同じ手法で全てを処理しているからだ。インテリに騙されないちゃいけません。特に生身の人間を都合のいい評論家に仕立てようとする陰謀には乗らないように注意したいです。評論はヒマな人たちに任せておいて我らは生身の人間として多くの人の声に耳を傾け自分の掴み得た知見の範囲で誠実かつ具体的に目の前の現実に対応していきたいもんですねえ。手の届く小さい世界もバカにはできません。きっと小さい世界の小さい仕組みが解れば大きな世界の仕組みも読みとれます。