明るい朱子学と暗〜い民主主義

最近になって世間では社会に普通に受容されているよな文化現象に対しても憲法や民主主義の原理に照らして是非論を展開する動きが目立つようになってきた。こうゆう状況に息苦しさを感じるのは当方ばかりだろうか。なんとなく時代の空気から推察すると当方だけが息苦しいとしても不思議ぢゃないかも知れない。なんとなく知識も学歴も正義感あるインテリたちが主張する自由や民主主義に付きまとう不思議な違和感の正体を考えることも多くなった。なんとなく勘づいてきたのは社会派インテリの面々にはを初めから常に変わらず合理的かつ道徳的に動ける人間を基準にして望ましい社会をイメージしていることだ。そして人間の非合理的で不謹慎な振舞いは一種の病や欠陥の現れのように扱われるように見える。んなにマトモに行動できる人間いるかギモンになる。んな流れなんだが民主主義も社会正義に出来るのは結局は取り締まりや教育や糾弾によって人間のダメな振舞いを社会から操作的に一掃しようとするくらいが関の山という景色になる。これぢゃ鳥居耀蔵あたりが江戸市中に目を光らせていた封建時代の生き地獄と原理的には違いがない。んで儒教やら儒学を改めて勉
強してみたくなった。そうしているうちに朱子学に意外な可能性がありそな予感を得た。まぁ確かに儒教儒学は窮屈そうだ。江戸時代の息苦しさを作っていたのは昔の儒教的倫理観だったのは間違いし特に朱子学が様々な制度や法律の理論的根拠になっていたのも理で気を正すことを目指す朱子学理気説だったのも間違いない。教科書的には朱子学は常に自由な陽明学と対比される嫌われものだった。でも元々の朱子学陽明学に劣らず開かれた思想だったことは改めて隔離したい。理気説ていう気だが今や気は特殊な生体エネルギーみたいに理解されているから合理的精神を大切にするインテリからは不人気だが近世までは景気や人気や気風なんかの言葉に現れる言語化できない不確定で自然発生的な動向を意味していた。このような気によって動く庶民を理によって誘導するのが朱子学の主なスタンスだと言えるが江戸時代には理は気を制圧する方向に展開してしまっていたようにも感じられる。しかし朱子学は基本的に人間を含む万物が気と理という2つのファクタの影響な中に存在すると考えるから決して気を理で封殺したり制圧する思想だなんて理解はできない。それどころか朱子学の思想体系は気を前提に組み立っているとさえ言える。そして窮屈な江戸時代にも遠山の金さんとか長谷川平蔵みたいに人間の本性を肯定的に利用して社会を改善ようとした人物も実際に現れていた。こうゆうのが正しい朱子学の使い方だと言える。それはヘタすると民主主義より明るい思想だったのかも知れない。流行や気分や成り行きや出来心という不安定な動きを基準に世界を考える立場には少しだけど民主主義の閉塞感を打破するヒントがありそうだ。今は暗〜い暗い民主主義に敢えて背を向け明るい明るい朱子学を勉強しなおすことにする。