儒学と茶道と座禅と私

このごろ儒学に凝ってしまった自分が嫌だが変な宗教に凝ったりするよりゃマシだと言い訳をしている。初めは法律や倫理と自由の問題に絡んで儒学の歴史を調べだしたんだが調べているうちに実は儒学は現在も普通に使える強力に実践的な理論体系だと思うようになった。これは自分にとってはコペルニクス的な展開だった。どうやら儒学というのは当初から人間の情報処理過程に入り込む様々なノイズに対処するための技術体系だったとさえ言えそうだ。より具体的に言えば人間が丁寧な振舞い自然にを身に付けるための方法論の体系と言えるか。理学も心学も共に人間の行動を悪に向かわせる最大のファクタを人欲だと規定していた。確かに現代的な視点から見ても人間の客観的事実の意識への反映を妨げる最大のファクタは人間の欲だ。人間は腹の皮が突っ張ると瞼はタルむし欲の皮が突っ張ると感覚も判断力も鈍くなるばかりでなく動作もザツになる。欲望の強烈な刺激で現実に必要な情報が遮断されたり歪曲されたりした経験は誰にでも共通してありそうだ。でもホントに怖いのは人間の感覚を鈍らせ所作をザツにしてしまうものが人欲ばかりぢゃないことぢゃなかろか。恨みや
嫉妬のよう
な感情も知識や思想や価値観のようなものも現実には似たような作用をするとは言えないか。んなもんで心学からすればホントは知識も思想もノイズだ。だから元々禅の影響を強く受けた中国心学の実際の修行でも心に何かの倫理観や世界観を植え付けるのではなく逆に心に定着したノイズの数々を取り除いていくことが要請されている。さすが心学!では人間にとって人生経験や倫理観は必要ないのかということにもなりそうだが問題はノイズに無防備な状態を放置するか否かにある。積極的に言えば自分の心のメカニズムや振舞いを観察し欲や思想の介入を著間的に捉えられるクリアな心をキープすることだ。経験的な話だか色々とネタを仕入れて作る人工的思想は自在さにおいて丁寧さにおいてニュートラルでシンプルなな心から出てくる臨機応変な言動より勝ってるとは言えない。こうゆう自在な側面が儒学にあったなんてホントに数日前まで思いもよらなかった。こんな儒学の魅力に急に気づいたのも昨年あたりに茶道関係の本を色々読んだことが決定打になっている。いかにザツな意識や所作が人生や社会を面倒な空間にしているかを知るのには茶道が一番の近道になると思うが
確かに儒学の修身修行に通じる何かがある。もし茶道の世界に近づいていなかったら儒学の修身に目を向けることもなかったし儒学そのものにも全く関心をもつことなく何も知らないままでノンキに死んでいったに違いない。それでも何とか土壇場で間に合ったのはラッキーだったと感謝。んでアタシは何者にな
っているのか。アタシゃ仏教徒なんですよね。