陸九淵が凄そうだ

儒教もしくは儒学の歴史を調べているうちに陸九淵の功績の大きさが気になってきた。んなことが今さら気になるなんてとこが蛯原の素人さを証明している。教科書的に言えば儒教の二大潮流は朱子学陽明学ということになる。これは日本での話。本場の中国では朱子の理学と陸九淵の心学とが二大流派となっている。そもそも陽明学は心学と言われていたのだ。そうすると石田梅岩の心学も陽明学と同じ仲間ということになるか。それは置いといて理学と心学の違いはザックリ乱暴に言えば何を通じて宇宙の法則を読み取るかの違いにあるようだ。朱子学では主に現実の社会や自然を観察することで人間の望ましい生き方を発見してゆくことになるが心学では人間の心のメカニズムや正しい心の働きを把握することで 人間は望ましい生き方を知ることになるという。だから同じ格物致知でも両者では意味が身が卯。朱子学なら普通に格物しているうちに心が正されて致知されるところだが心学では正しい心を通じて格物しないと致知されない。この2つの異なる態度は確かに私ども仏教徒の間にも厳然として存在している。世の栄枯盛衰や人の生老病死の様を見て無常の理を悟る
のも仏教だしバカみたいに己の心を見つめ続けて悟るのも仏教だ。これまで当方は世の中の出来事の観察しながら色々と考えたりしていたんだから朱子学っぽいか。でも世間を眺めていると意外に悲しくもなるし腹も立ったりするから最近では同じ効果が出るなら心そのものの動きを観察して悟りに至る方が幸せかと考えたりする。ここで態度としての朱子学と心学の違いを客観主義と主観主義なんかに気楽に分けちゃうのは乱暴すぎて悲しい。実際に朱子学と心学は互いに交流を求め不足を補い影響を与えながら発展してきた。ただ間違いないのは江戸時代になって硬直化した朱子学は別として中国宋代から明代に台頭してきた新しい儒教は経典や伝統の作法ではなく各人の意思と主体性を出発点とした思想だったというかとだ。もう世間が思うより真剣に生き生きと人間の自由を追求していた当時の儒学者にはビシビシと激烈なシンパシーを感じる。ついでなから日本では窮屈な政治思想に過ぎなかった儒教も今や遠い過去の記憶に成り果てたが本場中国では今も現代儒教として発展しつづけているらしい。さて今の日本において現代儒教と言えるのは安岡正篤系の陽明学もどきだけだ。
これは残念ながら細木数子氏の占いレベルに胡散臭い代物だろう。