それはホントにSekai no Owariか

昨日は例の宗教勧誘男が夕方の5時45分あたりに登場。油断していた。不覚をとった。よりによって笑点大喜利の時間に現れるとは誠に日本伝統の生活風土から浮き上がった野郎というしかない。笑点の時間は当方にとってはカトリックのミサにも匹敵する意味をもつのだ。この神聖にして創造的なる時間を奪うことは何人にも許されていない!しかも今日は笑点でリラックスしたら太平記の無礼講の段に挑もうかという流れ。大体が太平記の文は難しいんだから読む前には相当の覚悟が必要なのだ。あまりの怒りに15分後に改めて来て頂くようにと強気に要請してみた。すると相手は驚くほど素直に退散してくれた。暑苦しい熱意の中に当人なりの誠意を感じ取った。15分後から予想どおりの不毛な対話が数十分も続く。相手は必死こいて当該宗教のメリットや正統性を語るのだが片や当方は無情な計算機のように現象の一般化と体験談の心理学的な再解釈とを繰り返す。まさに不毛!最近になって儒学を勉強しなおしているせいか情報豊かな環境の恩恵を受けているはずの現代人が江戸時代の庶民よりも遥かに非生産的で非科学的な思考に嬉々として支配されていることにアタマ
を抱えたくなった。ああアタマ痛い。普通に生きていても何回かは奇跡的な縁にも出会うし長く生きてりゃ誰でも一度くらいは世界の破局の予感したりはするのにねえ。つらつら思うに昭和最盛期に躍進した新宗教は主に議席に媒介された利益誘導で人心を掌握したが最近になって
活動が目立つようになった新宗教は逆に神話的タイムリミットを設定して不安を煽りつつ人員の吸収を図っている。利益誘導と脅迫という二つの異なる手法は実は表裏一体で利益で動かない相手には脅迫で迫り脅迫が効かない相手には利益で惹き付けるという戦略だ。ああ多くのの人が幻のタイムリミットに無意味に焦りを募らせ当てにならなさそうな約束を信じて虚しく駆け回っているだけの人々。そりゃ我らの社会は間違いなく破局に向かって転がり初めているかもしれない。しかし何か得体の知れない巨大な威力に個人の運命や社会の行く末を委ねるというのは単に各人が背負っている普通の使命を放棄していることに等しい。むしろ我らに差し当たり必要なのは普通の思いやりと普通の工夫を回復させることくらいぢゃないのか。