儒学中毒!

やったぁやったぁ!ついに真理を極めたぞぉ!全ては一つの概念枠で説明できるんだぁ…何かを熱心に研究していた人がモーロクしてくると急に壮大で非現実的な理論体系を構築したいという欲望に取り憑かれることがあるそうな。これは明らかにビョーキだ。よく古本屋なんかで売れ残っている専門書らしき難解な書籍のなかにも実は誰にも顧みられることなく忘れ去られていった壮大な夢の廃墟が混じっていたりする。なんたってホンモノの権威者でさえ晩年には恐るべきトンデモ理論の構想を打ち出して門人たちを苦しめたりしている。例えば北大の宮…。でも他人に起きることは自分にも起きると思って少しは用心しとくに限る。とはいえ世の中には用心が何の役にも立たないこともある。どうやら当方も案の定で噂の病を発症してしまったようだ。しかも若年性というのは痛すぎる。宋明儒学理気説の展開をザッと勉強しているうちに政治理論だけぢゃない近世日本の気の概念の面白さの虜になってしまった 江戸の政治理論では単に制御の対象でしかなかった気の動きが同じ時代に様々な技術や問題解決法なんかに積極的に利用されることが判ると気という概念枠組みこそが日本のチカラの本質であり逆に気への無関心こそが日本の劣化の原因だかという観念に支配されるようになった。 そして今や気の概念を中心に置けば一切の事象が説明できるんぢゃないかという危ない予感に打ち震えている。ただし気といってもψエネルギーの気ぢゃなく物事に内在する独自のポテンシャルのことを指すことだけは改めて確認しておきたい。この気という枠組みからは操作主体の意図よりも操作対象の特性を優先しながら対象に働きかけるという基本的態度が導き出されるる。この感覚の下で全てを捉えなおしてみる色々なことが掴めたような気になる。例えば合気道や茶道や治水理論や礼儀作法。さらには日本的な接客技術や伝統的デザインや商人道なんかに共有される思想的背景。現代日本に見られがちな言葉による軋轢やシステムの破綻の問題。どうやら対象の操作や支配という西欧的な理念とは別の何か。何というか対象への便乗による誘導という感覚。要するに自分が動かしたいように他者を動かす代わりに他者が動くように他者を動かす感覚をヒントにすれば新しい日本儒学の基礎理論も構築できそうだし世の中の全ての謎も解明できそうだ。こんな野望をもっているんだから当方は間違いなくビョーキなんだろうか。もちろん今のところ当方にも自分の構想がビョーキだという自覚くらいある。しかも気による大統一理論なんて世界そのものの説明のためではなく自分の世界観の明確化もしくは言語化のためくらいにしか役立たないことは解っているつもりだ。つまり自分が知りたいのは自分が世界に感じているモヤモヤした手触りの正体だけだ。どうですビョーキはビョーキでも軽い方でしょ。だから当面は遠慮なく儒学に耽溺していく!それでも後でホントにビョーキが重症化したら確か5月ころにはビョーキの兆しが出ていたっけなんて誰かに笑って頂けるなら当方は充分に幸せだ。