富士山麓にオウムなく

麻原氏の死刑が執行されたってんで情報番組はオウム事件を振り返っている。テレビを見ていたら忘れていた色々なことを思い出した。あのころは世界でも希な大規模テロが起きたのに妙に実感がなかった。しかも多くのの人がリアルに悶え苦しんで絶命したのを知っていたのに不謹慎にもオウムのイロモノ性を依然として楽しんでいた記憶が蘇る。麻原氏の著作を取り寄せて詭弁の手口なんかを分析したりもしていた。分析しても特に秀逸な誘導の手口も見つからなかった。例えばラ○リアンにもエ○バの○人にも見られるような明らかに否定できない一般論を当該教団に対する帰依という結論へと差し替えるに過ぎなかった。しかし当時の当方が強く感じていたことは今も変わらない。社会が要求する資質の一部を欠く人間が全面的に社会的信頼を失うという現代日本の風潮がオウムを作り出したんぢゃないかという感覚。こんな浮き世だと信頼を失った人間はカネやら名声やら権力やらチンケなものを手に入れた社会的成功者にでもならない限り汚名の返上は叶わないかもしれない。麻原氏だって窮屈な社会の中では自在でも何でもなかったのだろう。しかし歪んだ向上心や偏った狭量
な正義感に基づいて実現された成功なんかからは大体が悪質な振る舞くらいしか出ちゃ来ないもんだ。今や美しく優雅に負けられる社会が必要だ。それが無理なら美しく負けられた自分に対する誇りを何よりも大切に生きてみるべきか。