事の一念三千を探検する

なんか欅坂46ってオッサンみたいな太い声で歌うから気分が悪い。ところで天台学は一念三千のモデルを確立して世界の多様性と多重性を示し心と世界の一体性を説いた。そこで日蓮教学は天台学の先を考える。なんでか。天台学では心と世界の関係を示すことで人間が仏になれる可能性を証明しただけだった。これに対して日蓮教学は心と世界の一体性の上に境地と境遇の関係を明かし境遇の違いを超えた仏様の絶妙の働きを強調する。このように具体的な境遇や状態を重視した日蓮的一念三千を日蓮教学では事の一念三千と呼ひ天台学の理の一念三千と区別している。日蓮教学は十界互具の原理を拡大し人間の境地が現世での生活に端的に反映すると見るから3000の状態は心だけでなく当人の性格や環境や運命まで決め手しまうという結論になる。一念三千に当てはめてみると人間が暮らしている世界は十界の中の人間界だが気持ち次第で地獄の境地にも天界の意識にもなれる。これで100。ここで地獄や餓鬼のような悪い境地に染まって暮らしていると人間に生まれて人間界に住んでいながら相応の醜い姿や悪い性格や過酷な急具が見に津いつしまうという。この具体性が日蓮
的一念三千の特徴だ。だが一方で一念三千は人間も鬼たちも共に仏様の境地を現せる根拠にもなっている。まさに法華経の第二章や十六章にあるように仏様の本懐は全ての命ある者を仏様の境地に導きたいという心であり願いは願いに終わらず実際の仏様の働きの原則になっている。だから全ての人間には等しく仏様の働きを受けていると考える。極端に言えば迷いから悟りに向かう人間そのものに仏様の働きが秘められているというより人間が仏様の働きそのもので生きているとさえ言える。それなら人間そのものが仏様ということになるが全てに反映しているのは仏様の働きであって仏様の状態ではない。つまり本質的には全てが仏様の働きであっても実際の過程としては多種多様な悲惨な状態として表れることになる。。改めて確認すると境地は境遇に反映するが多様な境遇そのものには仏様の願いと働きが反映されている。これが思い切り単純化した日蓮的一念三千の展開だ。では日蓮的一念三千と人間の境遇の関係を中心に少し詳しく調べてみよう。すでに見たように日蓮教学での一念三千は天台学とは違い修行という枠組みを飛び出し心という領域も軽く飛び越して具体的な生活
や活動の状態にまで適用範囲を広げる。そこで人間や動物や石や国家まで全ての活動や存在の状態を丸ごと何らかの境地の反映した結果だと理解する。それで日蓮教学的には持ち家やペットから会社や国家に至るまで全てが境地の現れであると見なす。逆に全ての状況は何かの境地の反映だから今の状態を通して自他の境地や因縁を逆算する基準も得られる。ただ究極的には一念三千の原理では全ての境地や境遇も結局は仏様の働きの一面を表すものであり全てに対して等しく作用している仏様の働きそのものも表していると言える。そのため同じ一念三千でも苦しみの根拠にもなり悟りの根拠にもなっている。それは迷いの目には仏様の働きも秘められたまま見えないし人間界や地獄も苦しみだけの世界としか映らないが里ってしまえば
全てが迷いから悟りへ向かう仏様の働きそのものになる。こうなってくると複雑な一念三千の世界も実は単純に仏様の世界と迷いの世界だけ設定しとけば把握は簡単になる。しかも悟りの目から見れば十界の全てが仏様の絶妙な働きなんだから人は地獄にいようが天界にいようが常に仏様との縁があり苦しみの世界に身を置いたままでも仏様の働きを自ら体現できるのだ。つまり実は全部が同じ!そんなにシンプルだったなんて今さらないよね。ここで改めて話を整理すると
では一念三千を出発点に何を始めるのか。天台学なら座禅だが日蓮系なら南無妙法蓮華経の題目を唱え法華経の世界観に没入する。何の方法を選ぶにせよ一念三千は世界の見え方なんだから世界観を語るだけでは意味がない。法華経の世界観とは他ならぬ一念三千。全ての境地が仏様の働きを受けていて誰もが今この場で仏様の働きに入れるというものだ。もう自分や他人の中にホントに仏様を感られれまで努力し続けるしかないだろう。やはり日蓮だったら迷わず唱題だね。究極的には自分と関わる全ての人が仏の境地に向かう動きがザックリでも実感できなければ本物の一念三千なんかぢゃない。だからさぁ。他人の心の動きもキャッチできないまま無理矢理のチカラワザで相手を言い負かそうなんて考えるレベルぢゃあ。一生かかっても一念三千なんか語れない。仏教を説いて相手に嫌がられたなら必死こいて反論の仕方を考えるより素直に出直して境地を高めてから相手を感動させましょうね。それが本物のリベンジなんだよね。へへへ。