ついに不都合な真髄へ!

結局は昨日の夕刻にも悪質宗教が宮殿の平穏を乱した。ただし夕刻に来たのは例外的に話が通じる人間だったので歓迎。率直な意見を交換し平和的に帰って頂いた。そういえば哲学者のニーチェつは化け物を睨んで暮らしているうちに睨んでる本人が化け物になっちゃうぞと言ったとか言わないとか。ころはミイラ取りがミイラという話か。お陰で当方も今や日蓮教学まみれだ。そして来ましたマズい領域!日蓮教学の不都合な真髄。誰もが感づいているけど出来れば見たくない日蓮教学の心臓部の扉を開くところまで来てしまった。それは日蓮的実践体系がホントに法華経に由来するのかという怖〜いギモン。そもそも日蓮教学も天台教学も法華経による全仏教の統一を目指していた。法華経のツボは誰もが仏になれるばかりか実際に仏なんだというとこ。そんなの仏教なら当たり前の前提ぢゃんと現代人なら言うかも知れない。お釈迦様だって修行して悟りを開いたんだから同じように修行をしたら誰でも仏になれそうだ。でも昔は悟りを開けたのは釈迦如来のみで他の人々は死んでも逆立ちしても仏の境地にゃ到達できないというのが常識だった。誰もが悟りを開けるという感覚が常識
化したのは平安時代から鎌倉時代にかけて天台学が日本に定着した結果だ。だから鎌倉時代以降に生きる我々にっては全員合格説が当たり前に見えても不思議ぢゃないのだ。ただ放っといても全員が仏に
なれる話ぢゃない。そこで元々は天台学が禅を利用したが日本天台宗法華経を中心にした仏教の統合という大計画のもと念仏や密教や律なんかを全て動員して法華経の理想を実現しようとした。しかし日蓮的には早くから法華経のみによる仏教の一本化を目指してたんで実践方法の全てを法華経の記述の中から探そうと頑張った。しかし後の時代の批判者も指摘するように法華経には具体的な修行法がない。書かれているのは生き方の指針と壮大な世界観だけだった。その不都合な真実法華経を読み捲った日蓮なら痛いほど知っていただろう。んなら法華経の文面の背後にある真髄を発掘して形にしちゃおうってんで苦心の末に発見したのが題目と本尊と統括組織の三本立て構想だった。しかし法華経の世界観を図案化した本尊も教団が是認するとおり真言宗の法具と同じく曼陀羅と呼ばれている。しかも曼陀羅の前でマントラを唱える行為も真言宗と酷似している。さらに日蓮諸派で個人レベルでの修行の究極の目的としている即身成仏だが即身成仏の概念は密教が初めて仏教に導入したものだ。つまり日蓮天台宗のようなイージーアウトソーシングは避けたが結果的に密教的な
骨組みに法華経から取り出した材料を組み込んでオリジナルの修行体系を構築することになった。これは密教法華経化ということになるが反対側から考えれば法華経密教化でもある。んで日蓮的宗教…。