漢字の入声:ケツのPの行方は

安室ちゃんがゲーノー界からいなくなった後も当たり前に歌は流れているのかなぁ。やはりアム・ロスはコンサートに行っている人だけに切実に共有されてる経験なんだろうか。さて急に変な疑問をもった。今でも広東語の漢字の読み方には今の中国語では消えてしまった音節末のK、T、Pが残っている。現代朝鮮語ベトナム語なんかに入った漢語の中にも同じ痕跡が残っている。現代日本語の漢字音読みにの「かく」「かつ」なんかも昔の看護婦の発音の名残なんだそうな。しかし日本語の漢字音読みには一つの不思議がある。例えば音読みのケツの音が「つ」になっている漢字のなかで「立」や「説」や「発」場合の昔の発音は広東語なら「T」で朝鮮語なら「L」で終わっているのに同じ「つ」で終わる漢字の「立」や「摂」や「圧」や「雑」なんて字は他の言語では基本的にPで終わっている。研究により復元されている昔の漢字の読み方でも立や摂や圧や雑も同じけケツはPらしいから日本語だけケツのPがTに変異したという話になる。なんで化けちゃったかを考えると2つのファクタが思い浮かんでくる。一つは日本語では漢字のケツのPが極度に不人気だったこと。もう
一つは熟語のアタマでは漢字のケツのk、P、Tの子音が一律に小さい「っ」になっちゃう点か。ケツのPの不人気さは例えば「習」や「入」や「十」や「甲」は日本語の感覚では「
う」で終わる漢字になっていることに現れている。これらは全て昔の漢字の読み方ではケツがPになっている。その痕跡は古い日本語の漢字の綴りにが「ふ」で終わっていることに求められる。例えば「習」は「しふ」で「入」は「にふ」。つまり日本語ではケツが「P」はは「ふ」で表された。「ふ」は後に伸ばしの「ー」と区別が着かなくなったため最終的に「ふ」が「う」と同じ扱いになってしまっても不思議はない。これでPで終わる漢字は基本的に「う」で終わる漢字の仲間に吸収されたと考えてみる。それなら逆に雑や圧なんかが「う」の作っ漢字に入らなかったという謎が残る。これは「つ」に先立つ音節を構成する母音の種類の違いの反映だと推察できる。そうすると今度は立が「りつ」になるという反対の謎が生まれる。ここで助けになるのが二つ目の要因の合成語による再固定化。例えば合体とか摂取とか雑多とか圧巻とかのように多用される合成語のなかでケツが小さい「っ」になっている漢字は古い音節末のPが「つ」に変換され末尾のTの痕跡を残し普通の「つ」で終わる漢字の仲間入りをしたと考えると何となく納得できる。ただし消えて伸ばし扱いになった十
や合のような漢字も十個とか合体のように合成語の中に入ると「っ」の痕跡を復活させる。さらに雑のように「さつ」と「ぞう」のダブルキャストに流れた漢字もある。このことから一部の漢字は早くにケツの「ふ」を失った代わりに伸ばし母音を得たたが一部は合成語の中で末尾に「つ」を持つ漢字として生き残り一度は末尾の「ふの代わりに」伸ばし母音を得た漢字も合成語のなかだけで「つ」を従える漢字として生まれ変わったと推察できる。漢字の中間的形態を知るために中世の資料なんかに当たる必要があるのは当然だが今は推察まで!さて少し前まで言語の変化は法則に機械的に従うとか本気で信じている言語学者も平気で商売していたが法則の実体は言語の内在的発展法則なんかぢゃなく人間が使い勝手の良さを追求する行動そのものだ。だから例外は例外で残り複数の法則が並行されることを改めて確認したい。まぁ社会科学だったら複数の法則の並存というモデルはマックス・ウェーバーの時代から基本だったことくらいは言語学者も当たり前に知っているはずだろう。