アメリカの心

アメリカぢゃプラのストローが環境破壊の主犯みたいに目の敵にされている。これが最近の日本だとレジ袋になるか。しかしレジ袋やストローを最悪の憎まれ役にする風潮がホントに科学的知見に基づくものなのかは解らない。特にストローの話は怪しい。だいたいアメリカってとこは象徴的で刺激的なイメージに弱い。何かショッキングな個別の出来事を目にすると社会全体が簡単に動いてしまう。例えば難民の子どもを写した一枚の写真や環境汚染の犠牲になった小動物の映像なんかが人々の良心に強力に訴えかける。一つの出来事が突破口になって今まで無視されていた社会問題が意識化されるなら素晴らしいんだがアメリカ社会ってのは与えられたイメージそのものだけに激しく反応してしまう。例えば一人の子どもが悲惨な状況にあると知ると当人にだけは全米から莫大な寄付金が集まるが同様な状況にある無数の子どもたちには関心が向きにくく救済運動は思ったより盛り上がらないらしい。しかしアメリカ的な熱気の最大の危険性は与えられたイメージを通じて特定の人物やファクタだけが唯一の犠牲者や加害者みたいにされ一つの特定の行動だけが一時的な流行のように盛ん
になってしまうことだ。例えばストローは確かに艦橋に悪影響を及ぼす。そしてストローの使用を控えるべきことも正しい。で
アメリカ全体がストローだけを目の敵にしストロー追放運動に熱中することで何か艦橋問題に大きく貢献しているように錯覚する。こんなストロー追放運動は逆に環境問題の全体像を見えにくくしそうだ。これもアメリカ特有の病と言えるか。もちろん日本にゃ日本の病があるんだけどアメリカって具体的な何かにしか心が集まらないんだよね。