観の効き目か。作為の下から衝動が

気づけば3日くらい何も書いてなかった。もしかしたらホントに何も考えてなかったのかも知れない。デヴィ夫人の舞踏晩餐会がインチキくさいとかドラフト会議のアナウンスが妙だとか色々と高尚なことを考えていたはずなのに何かを考えていた記憶が何も残っていない。ついでに気づけば作為する心が判断を狂わさなくなっている。こりゃ日頃の修行の効き目が出てきたかとも考えたいが最近の手応えの薄さは心が空になったせいなら空も意外に面白くない。気持ちも考えも感覚も済みきってきてそれだけぢゃない。お陰で統一性のない観念が次々に沸いてくるなんてことがなくなったし感覚も鋭敏化したが代わりに特定の状況に対して強烈な感情や判断やリアクションが出てきて止まらないし色んな思いつきが前触れなしに心に上がり込んできたりする。要するに衝動の表面化だ。思えば一昨年あたりから観の修行で攻略したターゲットは作為したり企んたりする心だった。んで確かに厄介な煩悩は効率よく片付けられたが残ったのは未処理で正体不明の煩悩の数々だった。んなら最初から煩悩全体を相手にしといたらなどとも思いたくなるが元々衝動や情動は作為と違って意識と無関
係に動くものだし底無し沼
にも負けない煩悩の深い闇の向こうには何が潜んでいるか解らない。んなら仕方ない。当面の予防策として因縁観を併用しながら衝動的心を観察してゆくことにする他ないか。ううむ観に効き目が確認できただけに課題が爆発的に増えたのが痛い!それに何やら頼りない感じが残る。