ズーボの衣は御法度

ズーボが衣姿で運転してたら反則切符を切られたとや。そのココロは衣では自由な動作ができないし運転したら事故を起こしやすい服装だと認定できるからなんだってさ。この出来事が例の如く色んな議論を巻き起こしているようだ。衣での運転が危険か否かは事実の蓄積だけが決めるものだから今まで一回も事故を引き起こしたズーボがいないなら衣で運転に不適格な服装に認定される根拠は薄弱だ。ただ近代法は実績や歴史を根拠に何かの行為を禁止したり義務づけたりするというよりはア・ブリオリに誰かがアタマで定義した特定の行為を禁止したり義務づけたりするシステムに近い。だからズーボの衣で事故が起きるかどうかぢゃなく衣での運転が法律が定義した任意の行為に当てはまるかどうかだけが問題になる。もちろん法律だって手続き上は科学的知験や歴史的事実を根拠にして作成→制定されるんだろうが法律が条文という言語的実態を纏った瞬間から現実の因果関係も理性に基づく未来の見通しも法を制定したときの理念そのものも飛び超えた絶対の威力を帯びるのは理性でも正義でも愛でもない単なる言葉の指示作用の無情な自己展開の効果だけなんだ。
それが近代ってもんだ。特に予防的な効果を目的に出来上がった法の本質は薬の思いもよらない副作用やら外来種の生態系に対する想像を絶する影響やらと同じような予測困難かつ制御不能な振る舞いを見せる姿なきモンスターだ。
またまた今回も事実ぢゃなく言葉だけを土台にしたで成り立つ近代法の病が露呈したと言えるか。でも日本も近代国家の体裁を採っている以上は現実を離れた言葉の支配に服さずには済まされない。んなら暴走の危険を孕む法の支配の下で健康的に生きるためには我々も表向きは法の正義とやらを信じる振りでもしながら腹の中では世の中を動かす因果関係だけを基準に判断を下し続けるより他ない。んで話はズーボの衣で安全運転できるのかだ。状況証拠で情けないけど衣が安全という一つの根拠を思い付いた。まずズーボと言えば少林寺少林寺なら千年にも亘って槍や剣や鎖鎌を相手に衣姿で戦いながら大多数のズーボが無事だったんだから衣での運転くらい普通に大丈夫だろう。少なくとも飲酒よりは危険が少ないか。いや待て。事実を根拠に安全性を主張するなら少林寺には飲んでも強い酔拳があることも考慮に入れたい。とすると飲酒だって普通に安全か?それぢゃダメやろ。さんざん展開した論理の構成がワヤんなったわぁt