感覚を掴むまで

そりゃ修法は開運の手段ぢゃないけど確かに修行の進み具合は開運によって確認できる。実際に開運できた頃には意地悪や未練や怨念からも自由になれるんだろう。だから密教による開運と関連する身体感覚の工夫を振り替えってみても損ぢゃない。色々と修法の工夫をしているとドライブ感の再現が意識の変容や体験の拡大に大きく役立っていることが解ってきた。特に手で作る印契の中に特殊なエネルギーの動きを再現し声を出して唱える真言の中にアクセントの強弱を入れると神秘の乗り物に乗っているよな心地よい感覚が生まれ欲望や計算や利己心を超えた心境が開けていく。さてドライブ感とは一般に音楽が流れているときや乗り物で移動しているときのように前方に向かって走っている感覚のことだが密教の修法でイメージできるドライブ感には前方への移動だけぢゃなく実は回転や上昇や放射や揺らぎなどといった多様な方向性と自由な広がりを内包している。仏様の働きを表す花や剣や宝石などのシンボルからも様々な感覚が読み取れる。これが印の中にも再現される。これを核にして仏様の誓願へと意識を広げ真言で勢いを付けていくのが今の当方の修法になっている。
微妙な手の動きも雰囲気を余計に盛り上げてくれる。でもホントは単に合掌して題目を上げるだけでも効果は同じだし考えてみると印や真言の使い分けなど密教の煩瑣な作法も無意味な気もする。それでも密教を推奨したいのは多様なオプションが用意されている方が多くの人の異なる個性や状況やニーズに合った形での対応が可能だからだ。やっぱり理想は作法の一本化だけど具体的なイメージが作れないと本気になれないというのが普通の感覚だ。どうしても一本化で行きたい人には阿字観も月輪観も光明真言もある。