日常風情

1月4日/ビーへの年も明けてもう4日です。この小さな町も少しずつ日常の景色のなかへ戻ってきました。何軒かのお店が開き、テレビでは暴れん坊将軍が始まり、小生は餃子を食しました。しかし世の中、お正月の風情など薄れているので、日常への回帰も劇的な感じはありません。そういえば普段のお店も妙に散文的というか日常的になっています。やはり風情とは社会的な自己演出、手を緩めたら消滅です。そうです、風情にはある意味で半分ニセモノ的な性質が隠れているようです。突如として3丁目の夕日の話になりますが、この時代が多くの人の心をガッチリと掴むのは単にその頃の人たちの人情や未来への希望があっただけではなく、みんなが自分の出来る範囲で生活の風情を作ろうとしていたことにも関係していた点にもあるのでは、と思ったりします。誰もがインテリア・デザイナーだった!という感じでしょうか。昔の観光地の駅なんかを見ても、そこを祝祭的空間にデザインしていますが、古い写真や絵ハガキなんかをみるとそうした施設ばかりでなく、普通の店や食堂にも異世界風情の演出があったようです。その頃のこと、思いだしません
か?柏木博という人の本によると、戦前、昭和10年代初め頃までの銀座はヨーロッパ、特にパリのような異空間の
イメージのデザインで満ちていたということですが、戦後の街にも別の意味での異境風情があったと考えます。しかも全部が手作り、悪く言えば全てがニセモノ!そのニセモノって結構シビレルのです。例えば湘南海岸にある江ノ島こそ昭和的ニセモノ天国、小生の心を虚威力に引き付けるのです。それは江戸時代以来、ニセ竜宮城で、今はそこに南国情緒が加わります。ハワイアンの流れる食堂のテラス、東南アジア味のお土産屋さん、そして対岸の片瀬海岸は昭和30年代後半にはニセのハワイや米国西海岸へと姿を変えました。全ては物質化した日本人の憧れです。最近チマタに増殖している本物志向の諸兄には、こんなのインチキじゃん!今じゃ誰も相手にしないぜ、とお嘆きのことでしょうが、このごろの本格派観光スポットはただの高級店です。本格派は価格に見あった正当なサービスを返してくれます。しかしそれは富裕層向けの商品ということでしょう。しかし風情は主体的なデザイン志向の産物だという気がします。しかしそれはニセモノですからお店もお客もシャレが解らないと無意味になってしまうでしょう。小生の美学というか、趣味とから言えばニセモノでも
風情は風情として、シャレに乗る方が楽しいと思うのです。もちろん昭和も昔となり、お正月からもこうしたデザイン志向も失われました。それでもそうしたシャレとイキの世界だって場合によっては悪くありません。今も昔もニセモノに怒る人たちがいます。そうすることでご本人の趣味の良さや教養の高さは示せるかも知れませんが、シャレが解るのも一種の教養、同じ教養なら笑うほうが得です。少し懐古趣味になりました。