説教天国

新年早々面倒な人間に会ってしまうと受けるダメージも普段の数倍、いや数百倍かになります。今年は「説教好き」との遭遇で始まりました。こやつ、説教好きなだけでも我慢ならないのに、それに加えて自慢話好きで批判好き、おまけに色んな意味で無駄に頭がキレるという声のデカい50女です。こやつの話は基本の型があって、まず自分だけ都合の良い事実で彩られた長い自慢話が語られ、次にたくさんの人が出てくる他人の批判タイム、そして最後は上から目線バリバリの説教となります。本当にヒドい目に逢いました。後で疲れがドバーっと体に来るんです。もっっとも自己愛まみれの自慢話や他人のメッタ斬りなんかは“はぁ、左様でぇ”とかなんとか言って適当に聞き流していれば済むのですが、説教となると左様には参りません。説教というモノの始末が悪い所は相手=被害者がいないと成立しないという点です。しかも説教好きの説教というのはあらゆる理由から不公正な悪行なのです。まず、相手が超M趣味なら別ですが、説教というのは一般的にされる方は嬉しくありません。ところが説教好きにとって説教は自分の趣味みたいなものなので、それは必然的

世の中で一番楽しい行為ということになります。そうなると極端にいえば説教好きは他人を苦しめて自分の快楽を追求しているワケで、もうこれは不公正としか言い様がありません。常に上から目線というのもイケマセン。それより何より自分の軌道修正は死ぬより嫌いという人間が他人の行動を修正させようと企てるのが物凄く不公正です。小生、考えるんです。そもそも不公正な態度からは正義や真理なんて生まれることは期待できない…なんて。一方で説教のなかには有難い公正でマトモな説教だってあると思います。そういう場合は聴いている方も説教する方も共に苦しいはずでしょう。目の前の問題を解決するために、仕方なく言いたくないことを言うワケですから、本来説教とは相応に心苦しいに違いありません。そして何よりも苦しみが直感的に、しかも平等に共有されます。つまりマトモな説教は基本的に公正だと解釈できるのです。それに比べて趣味の説教と来た日にゃ〜…。小生、説教好きの人間を見ていると、この人は時々可哀想に見えることがあります。こやつら意外に不幸なのかも知れない、何をやっても楽しくないのかも、という感じがするのです。そう例の説
教女も一日中文句ばかり言って暮らしています。それはそうでしょう。あれじゃチャンスというチャンスが逃げて行くに決まっています。それは価値観の問題というより技術論の問題として、その手の人たちが大好きな態度は現実的な問題を解決するのにはあまり有効ではな気がするからです。つまり事実として説教好きの人間の人生は問題解決も首尾よく行かず、意外と不満だらけになっているのかも知れないのです。そのチャンスを逃す態度とは、例えば問題に対して感情的にしか向き合っていないこと、効果についてフィードバック=結果確認を行っていないこと、したがって効果が出なくても方法の変更を検討しないこと、本来は現実的にありそうもない効果を期待していること、そしと何よりも他人の問題解決能力を全く信頼していないことなどです。そりゃ小生も間違った態度ばかりですから他人様にデカいことを言えませんが、少なくともこんな態度で問題に対応するのは避けたいと切に願っています。それだけでも結果が相当違うと感じます。不公正な人は結果として不幸になると思います。説教好きには悲しくなります。