コクリコ坂の昭和

anesti2013-01-11

 携帯で記事を書き込むのがだんだんキツくなってきました。今後は少し消極的になります。テレビで「コクリコ坂から」を見ました。舞台は昭和30年代の横浜ということですが、何か不思議な違和感がありました。ついつい3丁目の夕日と比べてしまうのですが、なぜか、このアニメ作品の描く世界観とか空気とかが全く昭和じゃないように感じらるのです。もちろんアニメはイメージの空間ですから、設定された舞台がリアルに再現されないからといって特に不都合もありません。ここで心に引っ掛かるのは作品の問題点とかそういうことよりも、小生自身の違和感の正体の方です。作品を見ながら色々考えたら、どうやら違和感の原因が少し判ってきました。ああ、なるほど!自分では気づかなかったのですが 小生が昭和を感じるツボがどこにあるのか改めてハッキリしてきました。小生にとっての昭和とは、異世代の混在と無意味な会話でした。そう、これが「3丁目の夕日」にあって「コクリコ坂から」にはが足りないものでした。「コクリコ坂から」の空間には昭和の歌が流れ、商店街があり、芝居がかったセリフの似合う夢見勝ちな生徒たちがいます。しかし、
フレームのなかには大人と子供の世界が別々に写し出されます。また大人と子供は必要な会話しかしていません。商店街でも店の人と生徒たちの間には特に会話がありませんし、生徒たちが会社に直訴しに出向いた場面などでは、会社の人間があまりに事務的なのも気になりました。むしろこの作品全体に漂うのは平成日本の空気です。昭和の空気のなかでは街ぢゅう全部が知り合いだらけで、大人も子供も関係なく、さほど親しくない人同士でも、やたらと声をかけあったり…とにかくそこには声が響きあっている方が自然だと思えます。極端なばあい港を見ながら話し込む「海」と「しゅん」の背後を「幸せになれよ!」なんて言いながら見知らぬ人が自転車で走りすぎてゆくような…。それが良い意味でも悪い意味でも昭和なのではと感じます。そういう意味では魔女の宅急便のなかには確かに小生の昭和が香っています。ああ、残念!「コクリコ坂から」のなかに控えめに響く歌も美しい風景も生き生きした物音も、舞台設定を標示するためのある種の記号でしかなく、昭和の空気を伝える役目を十分には果たせていない感じがしました。ついでに中心人物の名前の「海」とか「しゅん」も小生の昭和的な空気を乱してしまいます。もちろんこれは本当に個人的な感覚です。それに、おそらくこのアニメに写し出される美しいイリュージョンは、初めから昭和を知らない人たちのイメージなのです。それはどこまでも美しい幻影であってこそ意味をもつのかも知れません。