死せる魂

anesti2013-02-03

 鳴けるなら鳴いて見せたいホトトギス
  ロシアの作家についての知識はほぼ皆無に等しいのですが、今も一番好きな作家はゴーゴリです。今読んでいるのは『死せる魂』ですが、この作品の冒頭部分はストーリー全体と無関係に大好きなのです。そのワケというのは単純です。馬車に乗って汚い宿屋に着くチチコフという六等官が部屋に入り食事をすませるまでの描写にこの男の自由意思の主体的な動きらしきものが全く見られないのです。馬車が宿屋の前に着く、男が降りる、宿の人間が男を部屋に通す、食事時になる、階下に食堂がある、食べ物が運ばれる、男がそれを食べる。その流されるままの、まさに陸上の土左衛門状態の人間の姿がそこに描かれているのです。確かにこの描写では男は馬車を降り、部屋に入り、メシを食べるという行動を取っていますが、どうしてもそこに命が感じられません。

作中のチチコフは決して流されるままの人間ではありません。むしろ相当の口の上手い「やり手」なのです。宿屋でメシをくったチチコフは今しがた到着したばかりのこの小都市の様子を詳細に調べあげ、数時間後にはその土地のお歴々と知り合いになり、翌日には名士が開くパーティーのハシゴに走り回るようになり、ついにはそれぞれの自宅に招待されるのですが、これほど主体的で戦略的な活動を展開するチチコフが、小生には妙に空々しく見えてしまうのです。
しかし作中でチチコフをはじめ全ての登場人物についても、その心の翳りらしきものは強調どころか示唆さえされていません。この作品でも人々は明るく描かれます。もちろん他の作品と同様に、ここでもゴーゴリの言葉は軽やかでユーモアとエスプリに溢れています。
それでもこの『死せる魂』の作品全体に広がるあの色褪せた感じは気になります。ネオ・フォルマリストを自認する小生としては形式に目がいってしまいます。シクロフスキィは作品の特徴は語り手の目線にありとか言いました。参ったタヌキは目で判るという景色です。おそらくこの作品にみられる冷たい感覚は作中の全ての出来事に対する評価、それも冷ややかな評価が完全に語り手の名義の下に独善的に提示されているせいだと気づきました。つまりこの語りには、作中人物が実際に発した言葉以外には人間の声は全く反映されていないフシがあるのです。そこでは誰の立場も心情も斟酌されることはなく、ただ事実とそれに対する語り手の独断的評価があるばかりです。実はゴーゴリの作品にはこの冷ややかさが意外とよく見られます。詳細は別の機会に論じるとして、確かにこれが良い味を出しています。こういう描き方で場面を構成すると、世界がヨソヨソしくも空々しく浮かび上がってきます。アニメ「ちび丸子ちゃん」の初期の頃によく出てきた影の声、あれが嫌いだったのですが、あの変にフォニー小説な感じ!あれはある意味で敵対感みたいなものも入っていて、『死
せる魂』なら良くても「ちび丸子ちゃん」ではちょっと…という気がしたのです。
影の声の主はだれでもない、どこにもいない人間です。しかもゴーゴリのこの作品では、影の声の評価するとおり誰もが何かのメカニズムに従って動いているだけです。まあ世間には本当にこうした状況があります。何か主体的に活動しているつもりでいるのは自分だけで実際には単に社会の力学の上で漂っているだけという状況、自己実現のつもりが、気づけば商品経済のなかで消費されているというイロニィ、よくある話です。
 チチコフひとりの登場でその街は一時的に空前の盛り上がりを見せます。しかし最後には同じその街が疑惑の渦に呑み込まれることになります。『死せる魂』でした。