…色即是空:般若心経/壇経/華厳経

anesti2013-06-02

悟りの境地の表現として利用される空(くう)の概念や無念夢想の状態は、実体験を伴わない憶測や空想的解釈によって色々と語られています。しかし空(くう)について最も簡潔な表現で説いている般若心経の記述内容から、空という状態は想像や観念的な思考の結果得られたものというより、深般若波羅密多と命名された瑜伽行の実践を通じて体験されたものだと理解するのが無難だと感じます。
 ただ般若心経など般若系の経典には様々な仏教的概念を「無」や「不」、あるいは「非」といった言葉で次々に否定する記述が続くために、空には何が虚無的な闇の広がりのようなイメージが伴いがちです。しかし歴代の祖師方が残された体験の記録や般若心経それ自体の記述を参照しても、空がそうした虚無的世界を意味している根拠は見つかりません。般若心経では空を悟った菩薩の心理状態を「心に邪魔者が存在しない」状態と表現していることや「大日経」など密教経典で仏様の心を空(くう)ではなく空(そら)に喩えている点などを考慮すれば、むしろ曇りのない視界の向こうに世界の真実の姿が顕現する状態を表すのではと思います。 そうゆう意味では迷える衆生の心が磨かれざる鏡に喩えられることがあるのも理解できます。
 しかしここで観念的理解に毒されたプールサイド組の知識分子たちは機械的に六祖壇経の記述を想起するかも知れません。そこでは心には磨くべき鏡などない。心それ自体も存在しないといった恵能の得た悟りの内容が明確に示されています。この書に端的に現れている空(くう)の思想は確実に心の存在まで否定しています 。ただし注意すべきことは、この経典が観念的思考の書ではなく、あくまで体験に基づく言動の記録であり、この箇所の字義上の意味だけを取り上げて何かを語るのは極度に安易な態度と言えます。ここでの心の否定は、如何にも難しい話を好む日本的知識分子が喜びそうな表現ですが、まずこの箇所の内容を丁寧に読めば、それほどイージーな結論で終わる話でもないことが見えてきます。問題の箇所は基本的に「心は鏡である」といったライバルの神秀の詩に表現された境地との比較において師匠が恵能に与えた高い評価であり、これは正否の問題でなく優劣の差と言えます。そもそも恵能の悟りの方が確実に空(くう)の真相に迫っていることは間違いありません。そこで知識分子の連中は存在の全否定こそ禅の真髄であるとの
早計な結論を導き出してしまうのだと想像できます。この結論が当該箇所の単に言語表現上の問題に止まるなら特にこれ以上の検討は不要かと思いますが、これは大乗仏教の根本的概念の問題です。六祖壇経での神秀と恵能の悟りを詳しく対照すると、神秀の悟りのレベルが確かに恵能より低いことは事実でしょう。鏡を磨くべしという神秀の悟りは修行の過程を語ったもので、それに対して恵能の悟りは鏡が磨かれたら鏡自体もない世界が体験されるという、言わば修行の到達点を示したものです。しかしこのことが鏡のメタファがもつ教義上の意味を失うという結論には必ずしも至りません。恵能のこの種の言説くらいのものは大乗仏教の教義体系に基づく観念や知識を利用すれば誰でも簡単に捏造することが可能です。おそらく師匠の評価対象は神秀と恵能の教義理解の優劣などよりも、両者の度量の相違にあると思われます。その度量の差は神秀が悟りよりも伝人の印である衣鉢に拘泥したことなどに反映されます。
  そうゆうワケで、鏡の喩えという教説の価値への過小評価や存在の否定論の過剰な期待には曲解の恐れも残ります。少なくてもその可能性は残ります。事実として六祖壇経にも「世界の姿が一挙に現れる」という表現がみられます。しかもこれは壇経の最も古い原本の段階にも書かれた内容です。このような記述内容は唐代の法蔵の「五観章」にも共通に見られます。禅語にも「花は紅、柳は緑」とかいう表現もあり、体験される空(くう)の世界が必ずしも虚無的で存在否定的なものとは言い切れない部分を残してしまうのです。しかも初期仏教の修行者や学僧の間では存在の否定論に懐疑的だった学派もあり、大乗仏教の段階でも「器世間」あるいは「国界世間」「衆生世間」などの客観世界も設定された形で理論を構築しています(ただし、全ては心が作る映像だ!との立場をとる唯識学派については別の検討課題とともに論じることにします)。
 実際の経験も積まないまま、素人をケムに巻くために大袈裟な話をするのが仏教ではないと思います。縁起説の内容からみても仏教の世界観は存在する世界でなく経験される世界を基調にしています。仏教でいう空は短絡的に存在の否定とせず、単純に存在の第二義化くらいに考えても不都合はありません。難しい表現の向こうにあるのは案外、全ての存在の常住性と自立性を否定した世界くらいのもののようです。そうすると空(くう)によって否定されるのは存在そのものというより人間が観念を作り出し固定化していくメカニズムなのではないかと推察できます。小生の限られた範囲での経験でも空(くう)とは空(そら)のようなもので、視界の向こうには絶え間ない変化と相互作用が展開されているのが感じられます。
 全ての存在の真の姿が一挙に顕現するという経験をする日まで修行を続けたく存じます。
 食って見な