…真空妙有の世界

anesti2013-06-12

ここ数週間のこと、ちょっと厄介な人から頻繁に電話が入るので往生こいています。おまけにケータイでトラブルが発生するし、かないません。電話をくれる?人は明らかに性格方面に大きな問題のある人物で、いわゆるトラブルメーカーという部類に属します。電話は小生から掛けなおしてほしいと言うし、ひたすら自分の置かれた状況やら考えやら、要求やらを一人で喋りまくった挙げ句、こちらが真剣に対応すると「そんなことは聞きたくありません」と、まあ何ともカンとも。しかもお話の内容がまた他人とのトラブル!こんな人が社会の只中にチャッカリ紛れているんですから世界は奇々怪々です。
 そんなことがあっはた日も、その翌朝も修行です。そういう人にギブアップしてしまうのは自分の心に何が不足があるのだと思います。より誠実に親身に的確に対応できる人間になれると信じて、今日も仏様の世界に近づこうと観想に入ります。
 仏様の心、それは広い広い青空みたいな心だ!しかも、それは人間の心の本来の姿なのだ!と説くのは密教経典の大毘廬舎那成佛神変加持経、通称「大日経」です。そう説く一方でこの経典では現実の人間の心のタイプを60種類も列挙しています。仏様の心=人間の心の本質が大空なら、現実の人間の心の働きは大空に現れる様々な雲のようなものとイメージできるのかも知れません。この雲のような心は、言わば人間が生きるために作り出してきた構えや作戦やシフトなどが次第に固定化したり自動化したりしたものです。しかし大日経ではこの雲を何か悪い邪魔者のようには扱いません。この経典が問題にしているのは人間が自分で作り出したシフトを自分自身の実体だと誤解してしまう点だと読めるのです。
 もちろん密教でも雲一つない大空の心を人間の理想として設定しているのですが、大空に浮かぶ雲や空一面に広がる雲を除去するよりも、意識を雲から離して大空そのものに向けるようにする感じで心をクリアにしてゆく道を辿ります。最近流行のNLP(神経言語プログラミング)療法的な言い方をするなら、自分の心の領域を大空のように広く大きく設定していこう!という感じになりそうです。
 しかし、今までの人生のなかで蓄積してきた記憶や知識や工夫、それに習慣や癖なんかも全部がキレイになった世界とは一体何なのでしょう?「それは無念夢想の空(くう)の境地じゃ」と物知り顔のZENマニアが言ってきそうな予感もしますが、大体においてそんな死人みたいな境地が現実にあるのでしょうか?少なくとも実際に悟りを開かれたお釈迦様の活動するお姿からは、そんな死人みたいな心は垣間見えません。では大空のような心とは一体どんな境地なのか、気になります。それはやはり常人には想像さえできない神秘の領域なんでしょうか?経典の記述や歴代の祖師方の残された記録、それに小生の瑜伽行のわずかな経験などをヒントに推理すると、どうやら意識もなく、意識される世界もなくなると、突如その領域の向こうに何やら確かな実感がある大きな世界が現れるらしいのです。その世界というのは日蓮宗の教義に設定されている「オンマラ識」と呼ばれる精神的な領域であり、華厳宗の祖師の法蔵が言う「存在するもの全てが一挙に目の前に現れる世界」というべきものです。こんな説明では益々話の真実性が弱まってくる感じです。
 でも個人的には小生はこんな非現実的にも思える世界や境地も、ある程度までなら誰もが経験できてしまうと感じています。例えば誰かとの会話が物凄く楽しい時、頭が恐ろしく働くとき、人は何も考えないのに却ってアイデアや言葉がガンガン出てきたりします。そうゆう感覚だったら小生も瑜伽行の最中に時々経験します。それを祖師方の到達した世界や境地だなんてノンキな断定は致しません。余りにも恐れ多い!それでもそれでも確かに何もない空の世界の奥には空(くう)ではない大空の世界の存在が感じられることだけは間違いありません。
 それは一切何もない闇のような世界というより曇りのない遠くまで見通しの利く光と微風の世界のように予感されます。今日も心という無限に広い空間のなかに心地よい微風が流れ雲が絶え間なく姿を変え続けているのでしょう。悟りを開いたとき、そこに晴れた日の大空がその全貌を現す。そうゆう気がします。