…日蓮さまあ!(前編):原点

anesti2013-06-17

鳴き方で損もしましたホトトギス/損しても鳴くときは鳴くホトトギス


 華厳学やら密教やらの小生ですがナゼか日蓮さまには心を掴まれて逃げられません。うわぁ〜日蓮さまあ!
 ところが正直な話、インテリ層の日蓮さまに対する一般的なイメージは決して良い方ではありません。その理由として日蓮教学の排他性と他宗俳撃を挙げる人も少なくともありませんが、一方真宗の開祖である親鸞上人は同じく他宗の教えを否定、俳撃しましたが人気は上々な感じで不可解です。まあ日蓮門下のばあい、過去には色々ありましたし、ある意味では仕方ないのですが、基本的に悪いイメージというのは実体に触れない人々の間で醸成されるのが大体の相場でして、日蓮さまは損をしているようです。実際にあの膨大な著作に直に当たってみると、日蓮さまは世間で言うほど嫌な野郎でもないことが感じられます。日蓮さまが残した多数の手紙の文面からは、あのお馴染みのイメージとは程遠い細やかな配慮と優しさが窺えます。この世には一部のアブナイ感じ?のファンのせいで評判を落とす有名人や文化人がいるもので、日蓮さまはその代表的な人物の一人だと思えるのです。
 インテリなんかじゃない小生も当初は日蓮さまに対して敵意に等しい感情を抱いていました。しかし後にその考えを改めることにしました。そのキッカケは珍妙なものです。30代のころのお話です。そのころ不思議にプロテスタント信徒の知り合いが増えたのですが、なんか彼らが幸せそうに見えないのです。カトリック教会のような行動上の縛りもないのに、救われてない感じがしたのです。やたらと言い訳が上手いし負け惜しみも言うし、意外にワガママで自慢話が好きだし、何よりも他人に心を開こうとしないんです。そんな人にばかり会ったのは偶然の結果だったと信じたいのですが、とにかくプロテスタント信徒、特に男性信徒にはそうゆうイメージを持ってしまったのです。そんな折に昔々無理矢理に聞かされた日蓮さまのお言葉を思い出したのです。…いくら立派な理論があっても、その理論の正しさが実際の結果に現れていなければ意味がない!確かに日蓮さまの言うとおりだと思いました。そんな感じの流れで当時の小生はプロテスタント全体に漂う一種の虚無感の背景に日蓮さまが嫌ったそうゆう空論の体系を見たのでした。そして日蓮さまの著作
を読み始めたワケです。
 伝記その他によると、日蓮さまの真理探求は青年時代の2つの疑問を起点としていたようです。一つは「仏教の各宗派が互いに矛盾した主張をしているのはナゼか」、もう一つは「当時の僧侶たちは確かに経典どおりの教えを実践していたのに経典の記載どおりの効果を出していないのはナゼか」というものでした。つまり仏教の統一性と信頼性をめぐる問題意識です。これは日蓮さまの活動のなかに生涯に亘って一貫したテーマになっています。この疑問の追究の果てに日蓮さまが到達した答え、それが日蓮教学だったということになります。
 おそらく日蓮さまの掴んだ答えとは、末法の時代でも有効で、現世の人間の救いの道を明示していて、しかも全ての教説の存在意義を統一的に説明し得るもの、それは唯一法華経だけだというモデルでした。その結論を正しいと思えるか否かは別のレベルの問題になるかと思います。そのレベルでの検討課題とは無関係に、日蓮さまの提示した効果、方法、理論に関する問題意識と、救済を来世や心のみで済まそうとする当時の仏教を批判している基本スタンスは、実践哲学の世界で高度で普遍的な意味をもっているのは間違いないと感じます。こりゃもう、毛沢東の《実践論》まで連想してしまいそうです。試してみなきゃ答えもでない。救いがなけりゃ仏教じゃない!いつ救うんですか?今でしょ!
ただし度を越さないような感じで…。