クリスマスの贈り物

今日はクリスマスイブ、フランス語ではノエルです。ギリシャ正教会的な心で真夜中の静寂に耳を澄ましながら世界の復活を考えることにします。最近ではノエルがキリストの「誕生日」ではなく、キリストの誕生を祝う日だということを知っている人も多くなりましたが、一方でクリスマスがキリストと何かの関係があること自体を意識しない人も増えているのが実感されます。聖書にはキリストの誕生が何月何日だったか特に書かれていません。ルカ伝福音書なんかの記載から、それは夏だったんじゃないか、なんて説まで出ています。しかし、どうしてもキリスト誕生のシーンは冬の寒い夜でないと絵になりません。身重の聖母マリアとその夫の聖ヨセフはベツレヘムという情けな〜い町に辿りつきますが、どこの宿屋も満室で、泊まる場所が見つからないために絶望的な状態になります。結局、やっとの思いで汚い馬小屋に泊めてもらえることができましたが、そこでキリストが生まれるワケです。もう極限まで絶望的な景色のなかでキリストが誕生したということになります。タタミの上で死ねない!なんて言葉がありますが、ほぼそれに相当するようなミジメな景色です。この状
況の切
迫感とミシメさ、クソ暑い夏だとなると伝わってくる感じも大幅に変わってしまいます。やはり寒さというのは直面する状況にある種の悲壮感や絶望感や哀感を与えるようです。しかもその背後には何か温かい希望みたいなものがボンヤリと見えたりするる!そんな不思議な情景が広がります。だからこそ希望の失われた世界に到来した復活への予感という宗教的なテーマを再確認する日としてこの太陽暦のカレンダーのドン詰まり近くの夜が選ばれたのだと思います。かつて冬の寒さと夜の闇が圧倒的な力で町を包み込んでいられたころ、クリスマスは間違いなく家庭の静かな行事たったのです。テレビでさえバチカンでクリスマス・ミサを中継し、ディケンズクリスマス・キャロルのアニメなんかが放送されていました。町の肉屋さんには、この日だけローストチキンが並びました。我が生家では夜が来ると完全なる佛教徒の我が母上がクリスマスの由来やサンタクロースについて話してくれました。そして明かりを消しクラッカーをパンパン鳴らしてからケーキの上の蝋燭に火を灯します。こうゆうクリスマスも(結構普通に)あったりしたんです。おおきくなってから気
づいたのですが、ここまで宗教的なクリスマスは当時の一般家庭でも珍しかったようですが、おそらく相当に無教養な家庭の
子供でも、どんなに保守的な家庭の子供でも、この日がキリストさんの誕生日だということやキリストの母親が聖母マリアとかいう名前たといことくらいは誰でも知っていた気がします。ところで小生が少し大人になったころからクリスマスが来るたびに変な疑問が頭をよぎるのです。お寺の子供はクリスマスをどんな感じで過ごすのだろう。気になり始めると、ずいぶん気になる疑問です。もしかしたらクリスマスに近い弥勒菩薩の誕生日に合わせてケーキを食べたりするのか、あるいは子供のためだけにキリスト抜きのクリスマスを過ごすのか…しかも疑問が疑問を生んできます、例えば牧師さまの家の子は神社のお祭りとか盆踊りの日の過ごし方は…とか、だいたい夏なんかは浴衣姿で歩きたくなったりしないのか…とか。昔々そうゆう関係の子たちとも付き合いがあったころに色々と聞いておけばよかったと今でも思うのです。さて、そんなん特に意味もなさそな話です。今年のクリスマスイブの夜は去年より少しは温かい感じですが、やはり外にいたら寒いに相違ありません。幸い今年は温かく読書と思索と瞑想(妄想?)を深めていますが、この夜は寒い夜風のなか絶
望しながら街を歩いている誰かがいることが自然に意識されます。当時の聖母マリアの気持ちや、数年前の自分自身の経験や、そして知らない誰かが今まさに直面している状況なんかを想像します。あっ、誰かが来たみたいだ!おいっ、お前はブラックスワン!そりゃ良かった。まあ、朝まで遊んでいってくれよ。