雑!

無理矢理に高音を出すホトトギス

アナと雪の女王の歌が映画とは別に大流行なのだそうで。しかし、何が流行っていようと米国の流行歌の歌い方、ありゃ何とかならないものかと頭がクラクラします。よく聞く噂では米国のパフォーマンスには相当程度に高いクオリティが要求され、もうカラダ作りから、ボイストレーニング、姿勢のコントロールと、米国の歌手は歌唱力の基礎をかためるための厳しい修練を続けているとのこと。簡単に調べて見たら、それはホントみたいで、日本から米国に進出しようと試みた俳優や歌手がドンドン脱落してしまう原因のなかには、この地獄の修練もあると思えました。そういえば、世間にウヨウヨしている米国のものなら何でもいいという米国崇拝者たちはコピーしたように「だから日本の歌手はホンモノじゃないんです」とか言うのですが、さてさて、そこまでギリギリ鍛え上げたカラダで繰り出す歌のザツなことザツなこと。ただバーバーと声量に任せて声を前へ押してるだけで、しかも声の大きさと音域の広さばかりに意識が注がれるために高音部なんかは完全に苦し紛れの発声になっています。そんなもんだから微妙な情調の表現や空間構成など全く考慮されている気配が見え
ません。
とにかくザツという以外に何もありません。それでも米国文化同様に自分自身の思維もザツな米国崇拝者たちにしてみれば、あれこそ歌唱法の頂点というか鏡というか、とにかく唯一の規範ということですから、仕方ございません。それでも地球は回っているというワケです。いやいや、こりゃ米国の価値観しか知らされていない日本の不幸です。本当に広い音域とはロシアのヴィタスみたうに超高音でも伸びやかさと緩やかさを失わないものですし、感情表現とはエディット・ピアフのように明暗の区別だけでなく、二重、三重に重なった情調を「声」のみで表現することなんだろうと感じるんです。また日本伝統の義太夫には声の使い方の秘伝があって、物語の背景を語るときと前景を語るときには声の張り方を変えるそうな。現代演劇の世界にも竹内メソッドという声の到達点を自在にコントロールする工夫があります。声、それは物凄いポテンシャルを秘めています。しかし、なんでございます。米国のザツ・エンターテイメントは結局どこまで行ってもねぇ。もう量しかないんです。