密教シリーズ 蛯原硝は密教やって正解でした。

2 今年から密教に大きくシフトしたのは密教のチカラで何が何でも開運したかったこともあるが実は別の理由もあった。それは第一に鎌倉時代密教[の修法]が宗派を超えて広く実践されていたと知って密教に対する心理的ハードルが格段に下がったこと。第二に奈良仏教と密教との深すぎる関係に気づいて改めて密教に取り組む意欲が強まったたことだった。そんなワケで密教式のオツトメと華厳学など奈良仏教の勉強とのダブル・バンドの形式をスタートさせた次第。修法は極略作法とし真言もビルシャナ如来真言に限ることにした。修行の途中には今から振り返ってみると密教をやって良かったと実感している。修法を始めた当初から異様な出来事が次々と起こりだしたので密教は噂どおり怖いもんだと痛感したりしたが最終的には一時的に猛威を振るった不運や怪異や邪念も自然な感じで治まっていった。その代わりに自分の判断や行動の基準を知らず知らずのうちに暗〜い方向に導いていた漠然たる怨念の振舞いが把捉できるようになってきた。しかも怨念の動きが追跡できることで他人の気持ちも以前よりリアルにキャッチできるようになった気がする。この段階
で目の前に現れてきたのは思いもよらない新しい世界の姿だった。それは心と心が同時に感応し合い世界を構成する色々な要素も同じように互いに協調し合いながら一体的に動いている世界。その中では個人の心は多くの人々の心や周囲の様々な出来事を反映しながら存在している。よく言えば人間が無事にいられるのも様々なチカラの協調に支えられているためだし悪く言えば人間なんで単なるリアクションの塊にすぎないということになるか。これはノンキな思弁から生まれた薄っぺらなイメージというよりは手応えと共に心に迫ってくるホンモノの現実という感じのものだ。こんな感じの密教的で華厳的な世界観から大乗仏教を見渡せるようになったことで多様すぎる大乗の教えの間に成り立つシンプルすぎる関係も掴めてきた。ついでに大乗経典に描かれるSFまがいの仏様たちも実は現実世界の裏に働く法則や仕組みそのものだと気づくこともできた。それから他にも判ったことが色々あった。まず人間の心の中では悪魔の心から仏様の心までが物凄いヘビーローテーションで現れてたり消えたりしていること。世界の姿は心のモードしだいで地獄にも仏の世界にもなってしまうこ
と[心の方向性の違いが現実の方向性を左右しちゃうこと]。利口もバカも平等に煩悩の中を浮き沈みしながら生きていること。自分の善意は他人の善意に感応し悪意は悪意を刺激すること。仏様の誓いを意識すれば仏様の特徴が人間に移ること。仏教的な幸せはラッキーなときよりも無事でいるときに確認できること。煩悩はホントは仏様からの貴重なヒントになること。諸行無常だからこそ意外なチャンスも期待できること。自分の行動は他人の利害からは決して自由になれないこと。自分と他人の幸せを同時に祈る方が願いは叶いやすいこと。自分一人で気持ちよくなろうとする人は結果的に惨めになっていくこと。大きなチカラに乗ると意外に上手くいったりするということ。幸せな人は意地悪したがらないこと。e、t、c…。ああ密教やって正解だったぁ。引き続き精進して参ります!