呪いの論理

かつて民俗小僧だったころの話。日蓮宗の熱心な信徒さんから恐ろしい話を聞いた。その信徒さんに意地悪をした人には必ず不幸が訪れると言うのだ。当時の自分には極度に独善的で荒唐無稽な妄想だと感じられたので信徒さんの確信に満ちた言葉のせいで日蓮宗なんて所詮は民間信仰の類いだと断定する結果になった。後に観音経として知られる経典が実は法華経の一部だと知ったとき経文に呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還着於本人 とあるのを発見した。だとすれば少なくとも理論的には意地悪をしている人間が不幸になるというのは正しいと感じた。観音経に書かれている不思議な現象は言わば呪いを跳ね返す呪い返しみたいなものだと理解できる。この呪い返しは科学的には説明できない一種の疑似因果関係だと解釈できそうだが確かに普通の人にも頻繁に経験される出来事だとも思える。これを自ら体験してみると呪い返し現象は主観的な体験としては確かにリアルな存在感をもって心に迫ってきた。呪いや呪い返しは実在するのかは措いといて長いこと人間をやっていると実際に自分に意地悪したり付きまとったりする連中が滅んでいくのを何度
も見ている。なるほど日蓮宗の信徒さんの言っていたことは体験としては荒唐無稽でもないか。しかし自分の経験を詳しく分析すると実は呪い返しの力は自分に意地悪した人が不幸になるという言葉から自分にという部分を外しても成り立っていることが判ってくる。ただし呪い返しが生じるのは意地悪される方が相手を無視もしくは放置した場合に限るようだ。だから意地悪な相手に意地悪で反撃なんて自殺行為だ。できれば仏様のように慈悲深い眼差して相手を見守る者になりたい。さてさて呪い返し現象が意地悪な相手に積極的にはコミットしなかった人間だけに生じるとすれば意地悪な人の中でも特に自分に意地悪した人だけが不幸になるように見えても不思議ぢゃない。この考えをさらに進めると超自然を超えた超合理的な解釈が得られる。もちろん解釈といっても毎度の通りで基本的に飛躍した論理で要するに詭弁による帰着なのは言うまでもない!まず前提として意地悪する人は常に誰かに恨みや敵意をもっている。次の前提として現代の医学では恨みや敵意は免疫機構の働きを極端に鈍らせる。だから意地悪する人は体が悪いはずだ。ただし意地悪する人は同時に誰かに意地
悪することが最高のストレス解消法になっている。だとすれば意地悪したい人に意地悪させなければ当人はストレスが貯めこむ。ストレスが貯まると健康も害されるし判断も狂うし。ゆえに意地悪する人は放っておくと不幸になる。もしや逆に味方になってあげたら意地悪さんの調子を余計に狂わせちゃえるかも知れない。とにかく呪い返しは横暴なヤツに苦しめられっぱなしの本当の弱者にとっては最後の希望だ。だから気休めでも何でも問題ぢゃない。題目を唱えて耐え抜いて何とか目の前の危難を乗り切るのも悪くない。どうだぁ!題目上等だろ。まぁ真言でもヒフミ祓いでも何でも上等だ。