絶望神話とチベットのシジューポス

ギリシャ神話の中で罪を犯した神々の受ける罰は残酷なだけぢゃなくて絶望的だ。例えば人間のために天界から火を盗んだフロメテウスは高い山の上に縛り付けられて怪鳥に肝臓を食われるという恐怖の罰を受けたがホントに絶望的に思えるのは鳥に食われた肝臓は翌日には見事に再生されるところだ。わぁ嬉しいじゃんとか思うなかれ。肝臓が再生されるばかりにプロメテウスは永遠に怪鳥に苦しめられなくてはならないのだ。そこまで痛くないけれどシジューポスは高い山の麓にある巨石を山の頂上まで押し上げるという地獄のような課題を与えられた。もちろん巨石を見事に山頂まで押し上げられればシジューポスは自由になれるが絶望的なことに巨石は頂上近くに来ると転がり落ちる仕組みになっている。どうです絶望的でしょ。小説《異邦人》で有名なアルベール・化ミューは自殺者の心理を何をしても苦しみのループから逃れられないシジューポスの立場と重ねている。この神には死より他の救いがないのだ。この神話は希望をなくした人間の状況をリアルに表現していると言えよう。どうやらシジューポス神話と同じくらい絶望的な物語は他には滅多に見られないようだ。ただ
中国とビルマの間に分布するチンポー民族(カチン民族)に伝わる神話には月の藻優の起源を説明するために類似のモチーフが使われている。物語の概要:昔からから月の中には大きな桂の樹が生えていた。あるとき一人の男が桂の樹を伐り倒そうと斧を振るった。もう少しというところで日が暮れてしまい男は仕方なく帰宅した。しかし翌日になると桂の樹は元通りになっている。男は再び斧を振るうが作業が終わりかけると時間切れになった。男は来る日も来る日も絶望的な作業を繰り返したが虚しい努力に嫌気がさした男は樹の切れ目に頭を突っ込んで樹の再生を阻止しようと試みた。月に見える模様は桂の樹に男が頭を突っ込みながら耐えている姿なのだとか…。罰ぢゃないからシジューポスよりは救いがあるが結局は絶望的だ。この絶望神話ではプロメテウス神話に似て破壊と再生のモチーフが出てくる。しかし主体が逆転している。こりゃトドロフレヴィ=ストロースなら構造の変換の一例にしたくなるだろうか。この絶望モチーフの物語はチベットにもある。チベットでは同じモチーフながら結末には救いが用意されている。物語の概要:古代チベットの王
は仏教を国教にしようと考え都に近い美しい土地にチベット初の大寺院を建てることにした。ところが寺院の建設を始めると建物は夜のうちに土着の神々の手で落書きされたり破壊されたりする。これが延々と続き寺院の建設は一向に進まなくなった。んで最後は高僧の祈祷で寺院は見事に完成する…。ここでは破壊と再生の主体と客体がが月の模様の神話と逆転している。努力と妨害という関係で見ればシジューポス神話にも似ている。この建設と妨害という筋立ては噂によるとチベットの高僧ミラレパの伝記にも出てくるんだとか。もし結末に希望のある絶望物語がチベットで好まれているとしたら改めて話を深めてみたい。実は日本にも建設と破壊のモチーフが存在する。それは仏教の地蔵和賛の一節に見える。そこでは供養されないまま暗い冥界に落ちた子供たちの様子が描かれる。子供が冥界の河原で石を積んで遊ぶと鬼が石の山を崩しに現れるという内容だ。この子供たちを現世の人々の供養すると地蔵菩薩によって救い出される言われる。ここでは誰かの祈りが救いになっている。それにしてもカチン民族の別名がチンポー民族だとは。カチンカチンなチンポーは男の夢だ。