クリスマスの方便

心暖まるクリスマスの風景はテレビからも町からも身の廻りからもなくなってしまった。今年のクリスマスは一人で読書だ。いつもクリスマスには鶏のモモにアカダマ・ワインだが昨日は日曜で肉屋さんが休みだと思ったので夜は独り楽しくゴボウにラム酒で過ごすことにした。世界に愛と光を!普通にはクリスマスはキリストの誕生日だと思われているがキリスト教の公式的見解ではクリスマスはキリストの誕生日ではなく誕生を祝う日ということになっているらしい。なるほど聖書のルカ伝の記述ではキリスト誕生を天使に知らされた羊飼いたちは野宿していたとなっていることからキリスト誕生を真冬の出来事とするのは難しいという専門家の見解も出ているそうな!だから真冬のクリスマスは初めから歴史的事実の再現だとは断言できない。この日は当時のローマで流行していたミトラス教の祭りでミトラスという太陽神の誕生日だったことが知られている。この日は冬至であり次第に昼が長くなり始める日に当たるのだから闇が退き光が来るというイメージを実感するには最適だったろう。だがクリスマスを単純に教会が異教の要素を安易に受け入れた結果だなんて断じるのは無慈
悲というべきか。仏教に方便があるように古代キリスト教にも柔軟な方便があったと見
ればミトラス教の祭りにキリスト教がオリジナルな意味をあたえて生まれ変わらせるくらいは重い罪にならなかっただろう。古い伝統を今に伝える東方諸教会では教会堂の入り口を西に設け祭壇を東に定めることになっているが光の到来のイメージをレトルギヤ(集団礼拝)と一体化させる方便だったと見られる。んな感じで古いキリスト教の儀式では歴史的事実の再現より神の働きの効果的なイメージ化が大切にされていたことになる。そもそもレトルギヤも単なる歴史の再現劇ではなく天地創造に始まりキリスト在世中に極点に達し今にまで及ぶ生きた神の働きを表していると言われる。むしろ現代のキリスト教は古代から蓄積してきた方便の知恵を排除する方向に突き進んでいるようにも見える。古いキリスト教では目に見えない神が人間への愛のゆえに自らの働きを人間にも理解できる形で表現するという見方も普通の前提だったようだ。キリストの誕生は一方では人間と共に生きたいという神の愛の現れであるが他方では自らの活動を見える形で示したい意図の反映でもあったとされる。この神の活動のイイメージ化の発想はイコンという正教会の伝統を産み出す。イコ
ンは神の姿を捏造した偶像絵画ではなく神の活動のイメージ化だから許される。この論理はカトリックの聖像へと発展するが3Dは像でイコンぢゃねえと正教会は批判するようだ。今や古代的な方便を失いつつあるキリスト教からは仏像は偶像に見えるかも知れないが仏像も悟りの境地や救いの働きなんかをイメージ化するための方便だとは理解してもらえない気もする。