「いちご白書」が聴こえますか…

あまり会いたくない厄介な人に気に入られる場合がある。メンドくさい相手に嫌われるよりは好かれる方がマシだからミニ・マックス戦略ということて不利な場面では最悪の事態だけは回避るように動くほかない。これは社会工学数理経済学の産み出した暮らしに役立つ智恵だ。最近も少し会いたくない人物に半年ぶりに出くわしたが一昨日も再び。しかも再び偶然のタイミングで。さて今回の相手は70年代くらいに大学で政治活動に明け暮れていたが今は地方の町で貧乏しているという絵に描いたような鉄板の全共闘世代。。いるでしょ。このテの皆さんというのは話好きというより議論好きで特に政治関係の話が大好きなのだ。運悪く路上で出会えば必ず時候の挨拶みたいに政府やら小市民やら大企業やら米国やらの悪口て話をはじめる。そして延々と様々な弱者や犠牲者や被害者の出てくる痛ましくて不幸なトピックを繰り出してくるのだ。ただし不思議に話題は広く話は歴史ら宗教、経済、音楽、文学、科学技術に民俗から医療にまで及ぶが全ては同じ不幸で暗い方向へ持っていかれる。しかも始末に悪いことに知識が思い切り偏っているのに自分の話題の広さに自信満々だし持
論が十年一日な感じなのに誰より頭が柔らかいと思っているし自分の主張には当たり前に同調されると固く信じている。なるべく近づきたくない相手だが当方は誰にでも丁寧に接したいし特有の不幸な精神にも寄り添いたいので今のところは逃げずにいようと思っている。そんな政治と不幸と反逆者が大好きで何十年も同じ持論を語る暗い人たちは同世代の典型とは言えないけど確かに70年代という特殊な環境の中で大量生産された特殊キャラと言えた。面々を見ていると普通の人間の普通の幸福に対して欺瞞性とかインチキ臭さとかを感じているように見える。そして自らが不幸で不遇な状態にあることに一種のアイデンティティーを見いだしているようにさえ思える。考えてみれば面々も多くは田舎の真面目な青年だったのだろうけど水俣病狭山事件やブランテーションと色んな社会矛盾や未解決の問題の数々を知るにつれ当時の普通の人々が普通に享受している幸せが様々な不幸の上に成り立っていることにも気づいたに違いない。そこで当時の青年らは国家転覆による世情一新に活路を求めた。そして挫折。多くの青年は「いちこ白書をもう一度」の
歌のように抗いようのない現実に流されていったようだ。みんな幸せを求めるようになったが一部の時間は止まったままで社会の状況も今なお当時のままだ。幸せへの疑いを手放せなかった昔の青年が幸せに嫌悪感や罪悪感を抱き続けるのも当然だ。だが面々は今や不幸と反逆にしか関心をもてない雄弁なモンスターになろうとしているのか。ささやな幸せの追求さえ罪悪だと断じ社会に無関心な労働人民を嫌悪するまでになった。悲惨だ。元々どんな時代でもリアルな労働人民は昔の学生のように朝から晩まで社会の矛盾やら不幸な出来事ばかりりを論じながら暮らしてはいない。みんな不条理の中を可能な限りの誠実さを追求しながら泳いでいるのだ。だから昔のままの青年たちが自分の主張が当たり前に同調されると思っている限り痛ましいほど純粋な気持ちも相手に伝わらないだろう。でも幸せの構造は今なお悲しい真実だから丁寧に謙虚に気持ちを伝えれば言いたいことは必ず相手にも届くと感じる。でも聞いてもらえるだけで充分と感謝するのが賢明か。そこは多くは求めないマキシ・ミニの原則で!。