退場する商店街

行く川の流れは絶えず人は来たり人は去ってゆく。年々歳々人は変わる。その高齢者は若いころから一緒だった仲間が亡くなったのを境に魂が抜けたようになってしまった。仲間が生きていたときには講釈好きでデシャバリな相手に色々と不満があったようだけど今は親切だった一面ばかりが思い出されているようだ。こうゆう景色を見ているだけで心が痛い。このような切ない人間の気持ちは何千年もの時が流れても変わらないんだろうか。喧嘩仲間の恵施を亡くしてから急に塞ぎこんでしまった荘子の姿や気持ちがリアルに見えてくる。思えば近ごろ誰かを亡くしたワケでもないのに当方も妙にテンションが下がってしまっている。仏様の光の中にいながらやら虚脱感というか空虚感というかも判然としない微妙な気分に苛まれている。その原因は商店街の崩壊だ。こんなにダメージが効いてくるとは自分でも驚く。ここ3年くらいの間に昔ながらのストアの閉店に始まり長年に亘って地域に親しまれてきた惣菜屋さん、続いて魚屋さんに八百屋さん、豆腐屋。美容院が3軒と立て続けに閉まっていった。今月になって親切さが評判の小さな調剤薬局の閉店が決まると続いて町一番の大き
な魚屋が廃業した。なんとなく町そのものが退場していくのを目の当たりに見ている
ようだ。儚さを加えるのは近年の法改正のために家主を失った店が次々に更地になっていくことか。あちこちで明るい話し声が聞こえていた町も今では立ち寄る場所もなく重い荷物を持って黙々歩む人の姿だけが目に入る。方丈記鴨長明ぢゃないが行く川の流れは絶えない。世の無常は逃れられない。商店街の退場は単なる不景気や過当競争のせいだと簡単に片付けることも出来るだろうが色々と聞いてみるとマネーだけぢゃない様々な事情があることが浮かび上がる。最も多いと感じられるのは商売は無事なのに跡継ぎがないというケースだ。もちろん病気で店を閉める家もあるが背景には同じく後継者の問題がある。単純に跡継ぎがなくて閉めた店もあった。でも苦労の多い家業を自分の代で終わらせるという人もいた。みんな町の店の子供たちは勤め人になり街は住宅街になってゆく。そして車に乗れるファミリーは遠くの大型店舗に買い物に行く。片や車のない高齢者は路頭に迷う。走る車に歩く人々。町からは時計やベンチが姿を消してゆく。歩みの遅い歩行者たちが車をよけるときには今や住宅街を通る道には車を避けるスペースもなくなっているだろう。そのとき思い出して
ほしい。商
家が道路から少しだけ後ろに下がっていたことを。殺風景になってしまった町の殺風景な年の瀬だ。それを見ている心も殺風景になっていた。