蛯原硝の修法メモ 奈良仏教を覗いてみたい!

さぁ突然ですが時代はZENからKUANです!覚えることが多すぎるし誠に現実離れした世界観を振りだしてくる奈良仏教だけに世間からはガリ勉やら観念論やらと悪口を言われたりする。悔しいから奈良仏教の底力と魅力を大々的に宣伝したい。こんなブログぢゃ焼け石に水だが焼け石に水をかけりゃあキシュ〜っと湯気が上がるくらいのことにはなる。この志が大切だというのも奈良仏教だ。そこで奈良伝統の観=KUANだ!観の修行は出たとこ勝負のZENなんかより遥かに身のある修行だ。幸いにも釈一行(ティク・ニャット・ハン)師によって初めて世間に広く紹介されたベトナム系のZENは唯識の影響が強くZENといってもKUANに近いので日本でも観は以前より一般人にとって少しだけ身近な存在になってきた。さあて地味に見られかちな奈良仏教だが出来立ての阿修羅像みたいに派手派手な本来の姿を現代人は普通にイメージできるだろうか。そもそも奈良仏教は膨大な理論や作法のガリ勉を伴う上に超越的世界観を相手にしなければならないから近づきがたい。KUANをそのまま実行するのも本気で難しそうだ。いや真似事さえ面倒くさそう
だ。そこで取
り敢えず普通の現代人の普通のライフスタイルに合う似非KUANを提案してみる。まず始めに提案するのは似非十玄観、次に似非海印三昧。最後にに似非唯識観。さっそく座禅ぽく座ってみたい。まず似非十玄では自分と世界の関係や部分と全体との関係をああだこうだと考えてみる。ホントは十項目あるがメンドくさいから大胆に簡略化してみた。時間の観:ここに座っている自分の周囲では様々なことが同時に起こっている。逆に今の自分の中に膨大な過去が流れ込んでいる。空間の観:自分は様々な存在と接触しながら生きている。情報の観:自分が何かに注目すると他のものの存在感が弱まる。だから人間の意識の中では全てのモノは前面に出たり背景に退いたりする。全体像の観:全ては何かに対してリアクションしながら存在している。個性の観:全ては個性をもって独自に存在しているが原子レベルでは全てが一つである。お次は似非海印三昧。自分の心に広がる巨大な鏡に世界の全てが映し出されている。最後に唯識観。自分は過去に選んだリアクションだけで出来ている。自分は目の前の状況にリアクションしているように感じているけどホントは自分の中にセットされ
た対象に対してリアクションしている。自分の様々なリアクションのキッカケやパターン
を観察する。
ここで最後の最後に一言。ホントは得体の知れない素人小僧の思いつきなんかを真に受けちゃダメです。これは単なるサンプルで眺めるだけにしてください。そして奈良仏教が気になった方は早めにホンモノに近づいてください。 参考:《唯識思想入門》。《華厳の思想》。