奈良仏教は退屈ぢゃないよぉ。

そもそも真言宗との縁ができたのは20代のころだったが密教のホントの面白さや深さを実感するのは奈良仏教の魅力を知った後で具体的には今年の秋も過ぎたころだった。今は亡きアジャリ様は教理を先に語ることはなく常に曼陀羅や作法の解説を通じて理論を開示して下さった。理趣経の解説を除けば密教の話は後回しで華厳学や唯識学の話ばかりを語って下さった。今から思えば敢えて顕教の話ばかりして下さったのは当時は何も知らなかった一人の若者が密教の魔力に幻惑されないことを願っての気遣いだったのかも知れない。確かにアジャリ様の口癖は密教は毒薬だ!というフレーズだった。あれから○十年。ナゼかZENや念仏や日蓮にはイマイチ魅力を感じなかった当方だったが数年前くらいから奈良仏教の可能性に注目するようになった。奈良仏教は同じ顕教ながら物凄い何かがあるんぢゃないかと予感されたのだ。そして実際に開いてみた奈良仏教の扉の向こうに広がっていたのは心に対する緻密な分析と強烈に効果のある修行の体系だった!特に華厳学と唯識学は密教の世界観の探求そのものだった。そうかぁ昔から真言宗では密教を学ぶ前には必ず華厳や唯識を学ぶ伝
統があるが伝統の意味が全て納得できた。華厳と唯識は共に世界が全て心の反映であると大胆に主張する。この共通の世界観のもと華厳は全ての存在は互いに支え合っているというと同時に一人の人間の心の中にも世界の全てが写し出されると語る。つまり華厳は真言宗でいう楡伽と総持の世界だ。まさに曼陀羅だ!片や唯識では心が世界を作り出す複雑な過程を詳しく説いている。この見方からすれば心は手に触れる世界そのもになるか。これも密教て言えば五智の働きや加持感応の世界だ。アジャリ様は華厳も唯識も放って置いたらボーズたちがヒマに明かして作り上げた退屈な哲学の山だと過激に批判する。確かに奈良仏教の勉強が単にテクストを記憶するだけの作業ならクソの役にも立たない紙くずの山になっちゃう。それに比べれば密教は仏様の教えを現実の世界に直接に生かしていく道だ。華厳の世界観も唯識の認識論も密教なら自分のカラダでリアルに体験できる。だから奈良のガリ勉仏教は密教からみると空論の束に見えるのも当たり前だった。しかし奈良仏教に古くから伝わる観という修行を知ったことで奈良仏教への評価を変えたくなった。アジャリ様が批判するように
奈良仏教は勉強ばかりしているように見えるが実は他の宗派で研究されている華厳学や唯識学は理論の部分だけで大切な観については基本的に忘れられていたのだ。リアルな華厳や唯識ではガリ勉した内容を観の修行で自分のものにしていく。観とは理論を学んだ後で自分の心や現実の世界の観察を進めることで言わば考えるZENになるか。さて試しに理論をガリ勉して観を実修してみるとホントに様々な日常の出来事の背景に膨大な華厳の世界や緻密な唯識の心理メカニズムが見えてくる。そればかりか自分の心が大きな全体を映し出し世界も我が心を映し出していと判ると自分の置かれている迷路のような状況の全体像が感覚的に掴めるようにもなる。自分は世界の部品でもあり世界は自分の延長でもあったんだねぇ!こりゃ意外とバカにできない。このとき哲学の山は一挙に生き生きした情報を提供してくれる強力なナビに変わる!ただ皮肉なことに奈良仏教の側からは観については積極的なPRはされていない景色だ。瞑想と言えば無念無想のZENだけという日本で観が見事に忘れられているのが無念無念だ。